砂漠の王 9



江藤の目的は学院から智里を追放することにある。
その目的を達成するために、智里の机の中にカンニングペーパーを入れておいて そこを江藤が押さえるという狡猾な計画が練られたのである。
カンニング行為に対して学校側は退学にしない程度には寛大だが生徒側はそうではない。 今までのカンニングが見つかった生徒は全員自主退学している。
17世紀を代表するかの有名なモラリストのブリュイエールはこう語る。
私たちのすべての不幸は、独りきりでおれないところから生じる、と。



「ちょっと返してよ!」

閑散とした屋上。時折吹く風に髪を遊ばせながら莉津は遼に掴みかからん勢いで 詰め寄る。もはやお淑やかな大和撫子など日本から絶滅したといってもいいだろう。

「自分が背低いこと自覚したらー」
「160は平均身長だっつの!」

言いながらも意外と素早い動きを見せる遼に莉津は計画書を取り返せない。 ぴっと紙を持った手を限界まで高く掲げた遼は自分を恨めしげに見上げる莉津を 見下ろした。その口には笑みが広がっている。

「キミはこれを阻止したいんだね」
「だから――!」

いい加減イライラし始めた短気な莉津の口元に遼はすらりと細長い人差し指を当てる。 妙な色気が更に莉津の苛立つを募らせる。

「オレが協力してあげてもいーよ」

法に抗うなら必要でしょー?
予想外の言葉に瞠目した莉津に遼は軽く哂うと、その肩に手を置いて地面へと座らせた。

「……対価は?」

遼の顔は逆光によって見えない。
抵抗することなくその手に従った莉津は計画書を眺める遼を訝しげに見上げた。 手を貸したところで遼に何らメリットはないはずである。

「江波ちゃんからのキスでいーよ」
「却下!……あんたさ、私があの時のこと忘れてると思ってる?」

それがこの間の放課後をさしているのは疑いようもない。 人の記憶力、特にマイナス方面のそれを舐めてはいけないのだ。
勢いよく立ち上がった莉津は遼の手から紙を取り戻し、その勢いのまま屋上に1つしかない 出入り口へと足音荒く歩き出す。

「ねー江波ちゃん」

手持ち無沙汰となった手をパーカーのポケットに突っ込んだ遼は飛行機雲がかかる空を見上げる。 風が金に光る前髪を弄ぶ。

「この学校の欠陥をオレが知らないと思う?」

ドアノブに手を掛けた状態のまま、莉津はピタリと止まった。 振り返った莉津に佐元は手をヒラヒラと振る。

「私怨より大事なもんあるんじゃない?」

しばしの沈黙。
これ以上ないほど胡散臭そうに遼を見やった莉津は深いため息と共に ドアノブから手を離した。 結局元の順位を取り戻すためにはこいつの手を借りるより他はないのだ。 ああ、なんて世の中は不公平なのだろうか。
渋々と戻ってくる莉津に遼はニィと哂う。

「オレにも奉仕精神はあるんだよー」
「佐元がいつか嘘で身を滅ぼすに1万円!」





パチンという音とともに明かりが点いた部屋の全貌に莉津は息をのむ。

「これ全部佐元の?」

巨大なモニターと10数台にも及ぶパソコンを指して問う。

「ま、パソコン部オレ1人だけだしねー」

1台のパソコンを起動させながら遼が返事をする。
これで大体いいんじゃないのー、とざっと目を通した計画書を莉津に返しながら言った遼は そのまま莉津を連れて屋上から下り、3号棟の2階にあるパソコン部の部室へと 足を向けた。

「というか何で1人しかいないパソコン部がこんな豪華な部室持ってんのよ」

大抵の部活が所有する部室は運動系ならばグラウンド脇のプレハブ、 文系ならば交流棟の地下にある。
莉津に適当な椅子に座るように促した遼は自身も起動したパソコンの前に座った。 キィと椅子が軋む。

「使われてないメディアルームを貸してくれるようにりじちょーにお願いしただけだよー」

んー、と遼は両手を上げて伸びをする。

「それはお願いという名の脅迫じゃ」
「まー日本語は難しいからね!」
「貴様が言うか!」

莉津のツッコミに遼は軽く哂い、パソコンのモニターに向き直ってキーを打ちこむ。 遼の隣りに腰を下ろした莉津にモニターは見えることは見えるのだが、 英字の羅列ばかりで何が書いてあるかも分からない。

「これ、ここの欠点」

最後のキーを打ちこんで確認の為にモニターに顔を近づけた遼はその姿勢のまま 顔を左隣の莉津へと向けた。目の前のモニターも同時に莉津のほうへと向ける。

「なにこれ……学校の見取り図?」

モニターにはどこかの見取り図らしきものがある。 幾つかの棟ごとに分かれたそれは、どうやらこの学院の見取り図のようだ。

「そーだよー。ちなみにコマンドもできるんだよねー」

例えば、と遼が物凄い速さでキーを打ちこんでいくと、 ふっと電気が消えた。

「うぎゃー!なにやってんのよ!」
「あはは、ごめーんねー」
「謝るときは真剣に!」

暗闇の中パソコンのモニターが青白く光る。
再び遼の操作で点灯した電灯を見上げて莉津は首をかしげる。何故電灯がパソコンによる作業で動くのだろうか。 遼はそんな莉津をじっと見つめる。

「機械に頼りすぎてる」
「は?」
「この学校の欠陥だよ」

頬杖をついてニヤニヤ哂う遼の中性的な顔を眺めていた莉津は、 その言葉に閃く。

「佐元ペン!」
「オレペンじゃなーいよ」
「くだらん冗談はいらん!」
「うわー今ぐさっときたー」

遼はブツクサ言いながらもポケットからペンを取り出す。 莉津はなんでそんなとこに入れてるのかと突っ込む余裕もなく 受け取ったペンで計画書に書き込んでいく。

「ど?できたー?参謀」
「ふっ、がり勉を甘く見ないでよ。佐元違法なこと得意でしょ」
「人権侵害ですーただオレは無断でクラッキングしてるだけですー」
「それが犯罪だよ!」

ふぅと息を吐いて出来た計画書を頭の後ろで手を組んでた遼に手渡す。 受け取ったそれを眺めた遼は1つ息を吸い込んだ。

「いいんじゃない?」

そこに確かにある確執を目で見ることは誰にも叶わない。





6月の雨季をすぎ、徐々に暑さを感じる7月へと突入して数十日。
登校してきた 生徒たちはパタパタと下敷きで顔を仰いだり、袖をまくりあげたりしている。
彼らの手には往々にしてテスト対策用のプリントがある。 今は丁度期末試験中だ。定期考査よりも重いそれに、生徒はひと時たりとも無駄にすることなく 机に向かう。 その筆頭はがり勉を自負する莉津なのだが、彼女の手にはテスト対策用とは別の プリントが握られていた。
余裕の表情で登校してきた智里はちらりと隣りの莉津の手の紙に怪訝な顔をしたが、 肩をすくめると自身もカモフラージュの為に鞄からプリントを取りだした。
莉津が何をしようと関係ない。今はただ隣りの席という物理的関係しか2人の間にはない。


「カンニングをしないように!」

1時間目開始の始業ベルと共に一斉にシャーペンを走らせる音が教室中に響く。
名前を書きながら莉津はちらりと教壇を見やった。 教師と目が合い、不自然でないようにまた答案用紙へと視線を落とす。
想像通り、試験監督は江藤だ。
彼の計画通りに事が進むと、 およそ後20分で江藤は自ら智里の机の中に忍ばせたカンニングペーパーを発見するだろう。
中間試験のときに1年の生徒のカンニングが見つかり、 カンニング対策のために一度生徒を廊下に出させるという制度を悪用したのだ。
だが、はたしてそう事は上手く運ぶか?

「もうとっくに試験は始まってるぞ、佐元!」

きゅっきゅっと靴の音を響かせて教室横の廊下を通り過ぎる遼に江藤の叱責が飛ぶ。 それに欠伸で返した遼は、去り際間近に莉津に向かってウインクを1つして気だるげな その姿を消した。
それに呆れた顔した莉津は壁に掛かった時計を見上げる。あと5分。
ちらりと隣りを見ると、智里はもう問題を解き終わったのか、トントンと意味もなく ペンで答案用紙を叩いていた。
江藤が腕時計を確認し、口の端でニヤリと笑った。

「おい、唐崎――」

ジリリリリリリリ――
顔を上げた江藤がそう口にした瞬間、けたたましい火災報知機の音が辺りに響いた。
教室から見えるそれは非常時を報せるように赤く点灯している。

「か、火事!?」

誰かが叫び、何故か地震の時と同様にクラスの半分が慌てたように机の下に潜る。 おいおい、そりゃ地震だよ。その様に莉津は呆れかえる。
そんなクラスの動揺をよそに、 プシューという音と共に廊下のスプリンクラーが作動しはじめた。

「いいか。全員ここを動くなよ!」

硬直していた江藤はそう叫ぶと、廊下側へと確認の為に駆けよる。 その行動を全員固唾を呑んで見守っていたが、ただ1人、莉津はすばやくポケットから四つ折りにした 紙を取り出し、智里の机の中にあった紙と交換した。

「……大丈夫?」

交換した紙を四つ折りにしてポケットに忍ばせながら、 目の入った智里のただならぬ雰囲気に思わず声をかける。 その蒼褪めて冷や汗を流す姿は、尋常ならざるものがあった。
手を伸ばしかけた莉津と同じタイミングで、校内放送が響いた。

「今回火災報知機が誤作動により――」

響き渡る無機質な声に安堵の息が至る所で聞こえた。 誤作動だと判明し、なんとか騒ぎは沈静化する。

「全員席に着いて落ち着いて解けよ!」

集中を乱された生徒は全員不快な顔をしながらも席に着く。
今回の件は恐らく学校側から考慮されることになるだろう。没収になるかもしれないし 再試験の可能性もある。 しかし、江藤の計画は既にその手から離れている。 チャンスは折角2−Fの試験監督になれた今しかない。江藤は大きく息を吸った。

「唐崎!」
「はい、なんでしょう」

江藤の鋭い声に智里は顔を上げた。些か顔色が悪い智里に訝しげな顔を見せた 江藤だったが、気を取り直してふんと鼻を鳴らした。

「お前、机の中に何入れてる」
「はい?」

クラス中が思わぬ珍事に全員テストを解くことさえ忘れて事態に見入っている。

「出してみろ!」

江藤の怒声に智里は何故か机の中に入っていた紙を取り出す。 誰かが息をのむ音が教室に響いた。 嵌められたのは自明の理だ。

「それはお前の不正行為の証拠だな?ん?」

つかつかと智里に近寄った江藤は勝ち誇ったような顔で手を出した。

「見せてみろ」
「俺はやってませんが」

智里がため息混じりに言いながら紙を差し出す。さてどうしたものか。

「是非学校側に提示しなければならないなぁ?唐崎――!?」
「あれぇ、せんせぇ!それって門外不出の進路希望先と成績表ですよねぇ!」

しかもせんせぇの補講内容まであるー!
突然の場違いなほど明るい莉津の声に江藤の顔はさっと青くなる。

「な、何でこれが……!?」
「がっこーに出さなきゃいけないんだよねぇ」

追い打ちをかける莉津に江藤は耐えきれずにその膝をついた。
ブリュイエールはこうも語る。
愚者とは、自惚れるために必要な才知すら持たない者である、と。




「佐元ー号外配ってた」

昼休み。珍しく莉津が階段の下で見かけた遼に声を掛けた。 丁度上へと続く階段にいる莉津が下へと続く階段にいる遼に 江藤のことが載った号外校内新聞を降らす。

「あーいいんちょーの隈酷かったのはこれのせーね」

ヒラヒラと降ってきた一枚の新聞を上手くキャッチした遼はニヤニヤ哂った。

「委員長?」
「そ。いいんちょー実は新聞部のぶちょー兼任してんだよねー」
「え!」

だから裏事情知ってたのか。
思わぬ情報に驚きの声をあげる莉津に遼はニィと笑みを返すと、 また階段を下り始める。そんな遼に莉津が声をあげる。

「これから佐元どこいくの?」
「んー餞別あげに行くのよーん」

日本人だからね!と明るく言いながら遼はくしゃっと 丸めた新聞をポイっといとも簡単に地面に落としてそのまま下りて行く。
ポイ捨てかよ!
江波ちゃん拾っといてー。
そんな会話を残しつつ去っていく遼の背を見送りながらはたと莉津は思った。

「あれ?餞別って誰にだ?」

3年で転校生とは珍しい。



「唐崎のせいだ唐崎のせいだ唐崎のせいだ」
「自分のせいでしょーが」

智里を弾劾するかわりに学校側からの追求を受けた江藤。 叩けば叩くほど、埃のように賄賂やらテスト内容の斡旋といった実態が出てきた。
本来なら警察沙汰だが世間体を慮ってか学院追放という処分を受けた江藤は 荷造りをしていた手を止め、ばっと後ろを振り返った。

「佐元……!!」
「アンタのパソコン覗いたけどアクドイことばっかやってんのねー」
「お前のせいか……!」

今にも掴みかかってきそうな江藤を佐元は一笑に付す。

「やだなーオレはただ学校のシステムにお願いしただけなんだけどなー。 火災を報せてくださいってねー。べっつに書類なんかすり替えてないしー」

全てパソコンに繋がっている学校の火災報知機の誤作動を起こさせるのは容易いことだった。 スプリンクラーまでいじってしまったのは軽い遊びだ。後始末は大変だったらしいが。
ひゅーと寒々しい口笛を吹く遼に江藤は激昂する。

「貴様――!!」
「おっと。それ以上言ったら世間にも戻れないこと暴露しちゃうけど?」
「ぐっ……!!」
「キミもさーこの学校じゃなかったら目ぇ瞑ってあげたのにねー」

In nature there is no blemish but the mind.

音もなくそう言い放った遼は手を振る。

「じゃ、バイバイ」

力なく崩れ落ちた江藤に踵を返した遼の口元には愚者を嘲る笑みが広がっていた。







*ブリュイエール…フランスのモラリスト
*In nature there is no blemish but the mind.……人の醜さとは心の醜さよりほかにない 出典『十二夜』シェイクスピア