砂漠の王 10



セミも続く猛暑のために鳴く仕事をサボりがちな8月。
7月の期末試験を乗り越え、迎えた学生の特権である夏休みである。
エスカレーター式で大学までついている皇令学院だが、 国立を狙って塾に通う生徒が数多く存在するために、 生徒たちの間に夏休みという感覚は麻痺している。
かくいう莉津も多分にもれずその1人であり、あまりの暑さの為に 近くのコンビニでアイスを買ってそのまま 袋をぶら下げたまま塾の正面玄関の自動ドアをくぐった。

「ん?」

ガサゴソと袋の中を漁っていた莉津の 視界の隅に入ったのは濃紺のシャツを着たひょろりと細長い男。 ロビーのソファがある方でスーツを着た人と話しこんでいる。

「佐元と同じお釜堀った人か」

まったくもって思いこみも甚だしいが、莉津はそう呟く。 携帯が報せる時間を見る限り、まだ授業開始には早い。
実行あるのみ!
ひそひそと話す2人が見える位置へとこっそり近づいた莉津は 丁度手頃な位置に植木があるのを見つけた。
植木の陰に隠れてひょっこりと顔を覗かせる。

「ですから、このまま……」
「皇令も……」

やはり濃紺シャツの男は生徒会長である。 猛暑の中にあっても涼しげな顔で相変わらずの七三分けの眼鏡スタイルだ。 制服よりも身体の線の細さが強調されている。
遠い位置にいると途切れ途切れにしか聞こえなかった声も、今はばっちし聞こえた。

「君の尽力のおかげでなんとか我が学院も盛り返すことができたよ」

病院にいけばメタボとすぐさま診断されるであろうオジサンがその頭をテカらせながらも 対面の生徒会長の肩をバシバシ叩いた。痛そうだ。脱臼でもさせる気か……?

「いえ、貴校の元より持っていた力によるところが大きいかと」

生徒会長が叩かれた衝撃にずり落ちた眼鏡を人差し指でもって直しながら言う。 いやはや、おっさん臭い高校生もいたもんだ。 若さは大事だぞ、生徒会長!まぁ若さを保つにはストレスフリーな生活が 第一っていうから見るからに苦労性な生徒会長には無理そうだ。

「君、いい政治家になれるよ」
「お褒めにあずかり光栄です」

なにやら生徒会長がメタボおじさんに書類らしきものを渡した。 え、なにあれ……AO?

ガタガタガタッ!
持ち前の探究心故に思わず前へ前へと身を乗り出していた莉津は その体重に耐えきれなくなった植木と共に前へと転倒した。無残にも 植木からは土がたっぷりとフロアにこぼれてしまっている。

「いたたた……」

しこたま鼻をぶつけた莉津は擦過傷の部分を擦りながらよっこらせと起き上った。 鼻の骨は折れやすいから心配だ。
しかし、そんな莉津のささやかな思考は目の前で自分を凝視する2人を見たときに フリーズした。
うわあ、すっごい見てるー。
逡巡した莉津だったが、気まずげに右手を上げた。

「……アイス食べます?」

1個しかないんですけど。
掲げたコンビニの袋の中では棒アイスが衝撃とともに潰れていた。





「結局生徒会長は何をしたかったのだろうか」

莉津は頬杖をつきながらスポットライトに当たった夜のフィールドを見下ろす。
フィールドでは音楽に合わせて選手が入場してくる。 青い方の恐らく6番目が竜哉だろう。観客席とは 離れ過ぎていてこれじゃあ顔も判別できない。 目の前の女子高生はキャーキャー騒いでいるが果たして本当に 選手を正しく判別しているのかどうかも分からない
そんな莉津を余所に、選手たちは円陣を組む。焚かれる無数のフラッシュ。 莉津は弟のポジションを思い出そうとしていた。

「なんだっけポジション……ミッド…ミッドナイト?」
「それ真夜中。ミッドフィールダ―でしょー」

ぴし。
横から聞こえてきた思わぬ声に莉津は固まり、そのまま首だけ右隣へと動かした。

「佐元!?」

なんと隣りの席に座ったのは佐元遼。 初めて会った時と同様、双眼鏡で下を見下ろしている。いや、観客席と 言ってもいいだろう。

「女6割男4割。サッカーもついに男追放か」

貴様は双眼鏡を使って何を見ているのだ。
あんぐりと口を開けたままの莉津にくすりと哂って佐元は双眼鏡から目を離した。

「なにしてんの、あんた」
「オレサッカー好きなのよー」
「はぁ?」
「主に海外チームなんだけどさー」

誰も好みなんて聞いてないっつの。
好きなチームについてベラベラと喋り出す佐元に冷たい視線を送りつつ、 莉津は試合開始の笛の音を聞く。

そこからは案外と熱中する展開が続いた。 昨日の敵は今日の味方。佐元も普段の魑魅魍魎具合はどこへやら、 年相応の少年らしく「うひょー」だとか「あらー」 などとおばさん口調で言いながらも白熱していた。スポーツの力、恐るべし。
2人の間に会話はなく、しかし、視線は同じ場所を辿る。
試合が1−1のままロスタイムへと突入したとき、 佐元が1つ息をついて呟いた。

「江波ちゃん、兄弟は大切にしなきゃだめよー」
「……」
「後悔するときは手遅れだからねー」

忌々しい佐元に内心舌打ちしたい莉津。
懲りずに人の傷口をショベルカー並みに抉る佐元に文句を言ってやろうと 顔を向けたが、その悄然とした横顔に思わずついて出たのは違う言葉だった。

「佐元は?」

一瞬驚いたように莉津と視線を合わせた佐元だったが、ふっと哂うと手元の双眼鏡を弄りながら フィールドへ目線を戻した。

「姉1人」
「仲良いの?」

莉津の問いに佐元はすぅと息を吸い込む。

「姉さんのことは時が来たら話してあげる」

まだその時じゃない。
そう話す佐元の横顔にはどこか厳然としたものがあり、一種の触れられない雰囲気が 漂っていた。
人の傷口は抉るくせに、と1人ごちた莉津は 細く息を吐きながら夏の空らしく晴れ渡った、星がいくつも出ている 空を見上げた。会場には知らず熱が籠っている。

残り時間もあと僅か。
佐元が帰る支度を始めたと同時に、観客がわっと沸いた。どうやら点が入ったようだ。 フィールドを見ると竜哉が他の選手に揉みくちゃにされていた。 どうやら点を決めたようだ。 目の前の女子高生が興奮の極みに達したように手に手を取り合って騒いでいる。
ふと、莉津は自分が世界から切り離されたかのように感じた。 周りの音も遠ざかるかのような――

「じゃ、帰ろっかー。コンビニでアイス買ってあげるよーん」
「うわ、変態親父くさい」

佐元の言葉にはっと現実へと引き戻される。

「もー江波ちゃんってば年頃の乙女が鼻に傷なんかつけちゃって」

すっと伸ばされた佐元の手から数センチ身を引く莉津。

「絆創膏はらないだけマシでしょ」
「まー責任もってオレが引き取ってあげるからさ!」
「あんたに責任はない。よって断固拒否致します」
「かたっ!ダイヤモンドより硬いよ、江波ちゃん!」

莉津は電光掲示板に写った日本という文字の下にある数字が1から2へと変わるのを見て席を立った。





「痛いの?」

知らず知らずのうちに鼻にできた擦過傷を触っていた莉津はその声にはっと我に返った。
受験生を慮ってるのかそうでないのか、皇令では9月の始めに修学旅行が行われる。 例年イタリア、イギリス、スペイン、ドイツといった西欧を中心とした海外に 行くのだが、ここ最近の情勢の変化と円安の影響で今年は国内へと変更された。 当初はぶーぶー言っていた生徒たちであったが、住めば都もとい来てみれば天国。
ここ、沖縄でのリゾートを満喫していた。

「うぅん、莉津痛いのダメなのぅ」
「あ、そう」

莉津のぶりっ子に動じることなく隣りに座る木下凪早は目の前に広がる海に 目を細めた。
グループは基本4人。莉津と凪早以外の2人は制服を着たまま海へと足だけ浸かりに いったようだ。キャーキャーはしゃいでいるのが遠目からでもよく分かる。 水遊びは若い衆に任せてと女子高生らしからぬ莉津と凪早は車の通りが全くない道路と海を隔てる 石垣の上へと腰かけていた。
ざぁっと波が寄せては返す音に目を細め、莉津はちらりと無言の凪早を見た。
風に揺れるポニーテールは潮風を吸い込んで痛むのだろうか。 その漆黒の髪が傷んでしまうのは勿体ない。
莉津は間の沈黙に耐えきれずに声をあげた。

「あのぅ、なんで凪早ちゃんは莉津とグループ一緒になってくれたのぅ?」

胡散臭そうに莉津を見る凪早はため息を吐くと額を掻いた。

「あんたさ、素のままのほうがいいと思うよ」
「えぇ?」

まさか。バレてたと言うのだろうか。 目を丸くする莉津に凪早は呆れたように肩をすくめた。

「定期考査はイニシャルだけど模試だと名前出るでしょ。 クラスの大半はアンタが優秀で勉強家だってこと知ってるよ」

知らないのはあのアホ3人組と物事に頓着しない唐崎くらい。
衝撃の事実に莉津の口からは意味をなさない言葉が漏れる。 では、あの努力は一体なんだったというのか。 理不尽な怒りと共に羞恥心も湧き上がる。

「何で自分を隠そうと思ったの?」

凪早のストレートな質問に莉津は視線を這わす。 海へと駆けて行った2人は水を掛け合い始めていた。 後先を考えないところがいかにも女子高生らしい。
石垣の上を走る一匹の虫を追いかけながらぽつりと呟く。

「私さ、中学の時同じクラスの子たちに虐められてたんだ」
「――なんで」

ばっと凪早が莉津を見た。
雲に隠されていた太陽が姿を現したと共にきつくなる日差し。 水面に反射する様に目を細める。

「ただ私が1番だったことへの妬みから」
「言っちゃなんだけどさ、あんたのクラスメイト馬鹿?」
「んー若気の至りってやつなのかな」

口ではそう言うが、実際のところ莉津は未だあのクラスメイトたちを許してはいない。 靴を隠すことからはじまり、教科書を破って果てには机まで教室の外へと移動させた。 あの仕打ちは思春期真っただ中の中学生だった莉津の心の柔らかい場所を抉って醜い傷を残した。

「ふーん。でも高校は違うんじゃないの」
「怖かったのかもしれない」

また否定され、拒絶されるのが。
地元の中学から進学校へと進学したことで 唐崎智里という天才を目の当たりにし、世界の広さを知った。 秀才とはいってもいいかもしれないが、 天才ではない莉津は異質な存在ではなくなった。しかし、それでも 中学から引きずってきた恐怖心は消えなかった。
突然、隣りにいた凪早が石垣から砂浜へと降り立った。
石垣から 砂浜までの差はおよそ凪早の身長くらいだ。
着地した際にスカートについた砂を払いながら凪早は石垣の上に座る莉津を見上げた。

「あのさ、アンタが秘密話してくれたから私も言うけど」

キョトンと自分を見下ろす莉津にニッと凪早は笑って見せた。

「私実は担任と付き合ってんだよね」

思わぬ事実。莉津は目を見開いた。

「えぇえええ!」
「一緒のグループになったのはヤツから頼まれたから。でも今は良かったと思ってる」

それと。

「世の中はアンタが思ってるほど馬鹿じゃないし、悪いことだらけでもないよ」

佐元のように金髪とは到底違うが、莉津には凪早が太陽の光に反射して眩しく見えた。
ほら、と手を差し出した凪早にきゅっと口を結ぶ。

莉津は目の前に広がる砂浜へと、石垣の上から飛び降りた。





「もうすぐ食事だってー」

あ、いたいた、と廊下の先にいる莉津にそう声を掛けたのは同じグループの女子。 ホテルを探索していた莉津は部屋に貴重品を置いてきたことを思い出す。

「あーうん、ちょっと部屋寄ってくね。先行ってて」
「オッケー」

凪早が言った通り、 海ではしゃいでいた2人は普通の口調に戻った莉津を何も言わずに受け止めた。
食事が用意されている宴会場へと駆けていく後ろ姿を見送り、 莉津は反対側へと歩いていく。ここのホテルは作りが複雑すぎる。
壁に掛かっている見取り図を見て部屋番号を見つける。どうやら右側通路の奥らしい。
踵を返した莉津は、廊下の向こう側から向かってくる人影に思わず呟いた。

「唐崎……」

智里も莉津に気づいたらしく、けれどその歩調を緩めることはない。
あまり目線を合わさないようにと智里とすれ違った直後、莉津は手首を握られる感触に 足を止めた。

「なに?」
「何で俺を助けた」
「はぁ?」
「期末試験のときに紙をすり替えただろ」
「ああ」

あの時のことね。
莉津は掴まれた手を引き抜いた。

「別に他意はないよ」
「はっ善意だけでするか?裏があるんじゃないのか」
「あれで私も利益を得た。 協力した佐元はどうだか知らないけど私はあんたに恩を売る気はないってこと――用がなかったらもう行くけど」

莉津は掴まれていた手首を擦りながらも、智里の様子がおかしいことに眉をひそめた。
熱でもあるんじゃないの?

訝しげな顔をして去る莉津の後ろ姿を智里はその場に佇んで見つめる。
何なのだろうか、この違和感は。 分かっているのは物理的なことではなく、精神的なことだというくらいだ。
ガンッと鈍い音が辺りに響く。
初めて感じる理解できないことへのいら立ちに思わず壁を叩いた智里は 小さく舌打ちをする。

自分の今の心情を表すには智里は些か無知すぎた。