砂漠の王 3



まるで子守唄かのように流れる英語。 午後一の授業ということもあってクラスの約5分の3がお陀仏だ。 授業内容は17世紀に盛んに行われた論争についての論文。 それを英語で理解するには、生粋の日本人にとっては難解だ。 ぐるりと教室を見渡した智里。 実に41名が在籍するこのクラスでも自分しか完璧に理解していないんじゃないかと思った。 さて、と不規則に並んでいる古語のそれぞれの頻出具合を解明しようと シャーペンを走らせた。しかし、ほどなくその手は止まる。 手に影が何度も走ったからだ。

「……江波さん、何かあった?」

その影はなんてことはない、窓際の席からの、つまりは莉津の謎の手の動きによるものだった。 莉津は必死に窓から下を見ながら 妙な手の動きをしていた。しかし、智里が声をかけると勢いよく振り返った。

「えぇっとぉ、ちょっとねぇ……」

普段はズバズバと言わなくてもいいことを言う莉津にしては歯切れが悪い。 その歯切れの悪さに智里はああ、と頷く。 大抵隣りの席の少女の歯切れが悪いときはアイツが関係しているときだ。 窓の外からは、ホモという大変不名誉なあだ名で呼ばれてる担任の無駄に威勢のいい声が聞こえてくる。 智里は現状を把握した――どうやらヤツ、佐元遼のクラスが屋外体育でもしているようだ。

「江波ちゃーーーーーん!!」

年のせいか死にそうな英語教師の声しか聞こえない教室。 そんな中、佐元の声は小さいが確実に響いた。勿論、智里の耳にも。 前に座る真面目な生徒の何人かが何事か、と莉津を振り返った。 ついでに智里も莉津を見る。もはや手元の古語はどうでもよくなった。 肝心の莉津は、クラスの様子に慌てたように更に手の動きを速めた。 つまりは智里の卓上の影の動きも忙しなくなったってことだ。 ああ、うぜぇ。さっさと席替えさせろ、ホモ。 心の中で毒づく。

「それではここで終了にします」

来年定年退職を迎える英語の教師はいつも締めは日本語だ。 老教師が使うのは、少し訛った、しかしクイーンズイングリッシュの枠に ギリギリ収まる英語。アメリカ帰りが多いここの生徒には不評だ。 智里としては米語よりも英語の方が聞き取りやすくて好きなのだが。
しかし、そんな論争も授業中すべて寝ていたら意味をなさい。 まだ授業終了のベルが鳴ってないせいか、誰も起き上がらずに寝続けている。 教壇の上で教科書を片づけていた老教師は唐突にその手を止めた。 その懐かしげに細めた目を莉津へと向けると、おもむろに口を開いた。

「――Miss.Enami,
 To be or not to be ? that is the question:
 Whether 'tis nobler in the mind to suffer
 The slings and arrows of outrageous fortune,
 Or to take arms against a sea of troubles
 And, by opposing, end them.」

突然の老教師の暴走に、机の上を片づけていた何人かがぎょっとして教壇を見た。 呼ばれた莉津も当然呆気に取られて老教師を見た。まさかの奇襲だ。 智里は冷静にそんな教室の様子を眺めていた。

「恋愛も戦いの1つでしょうからね、江波さん。彼によろしく。 あの日の演説は随分と荒削りでしたが――素晴らしかったですね。
何はともあれ、今の文句は何においても当てはまる普遍的なことでしょう。 皆さんも人生の岐路に立ち止まったときは偉人たちの知恵を是非参考にしてみてくださいね」

その瞬間丁度タイミングよくベルが鳴った。 何も言えずにいるクラスを尻目に、莉津に軽くウインクした老教師は覚束ない足取りで教室を出て行った。
老教師が言った言葉はシェイクスピアの最も有名な台詞といっていいだろう、 かの有名なハムレットから抜粋した『生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ』の箇所だ。 この部分は長ったらしい比喩が続くが、 本質はその1節に込められていると言っていい。
確か大学時代は英文でシェイクスピアを専攻したといってたな、あのじいさん。 俄かに活気付くクラスはさておき、智里は白羽の矢が立てられた莉津を見る。 珍しく神妙な顔で唸っていた。まぁどうせこいつの事だ。言われた英文が理解できなかったに違いない。 やはり馬鹿だ。智里はそう結論付けると、自分の考えを肯定するように深く頷いた。





「なあにーシェイクスピア好きなの?」

放課後。不本意ながら図書委員であるがために英文学のコーナーを整理していた莉津。 ふと手に取った本をしげしげと眺めていると、横からひょい、とはた迷惑男の佐元が覗き込んできた。 その腕には本が十数冊抱えられており、これから並べにいくのだろう。勤勉だ。 案外ひょろひょろに見えて筋肉はあるのかも。

「や、シェイクスピアは読みにくいから好きじゃない」
「イギリス人は小難しー文が好きだかんねー」

莉津の中での佐元の急激な株価下落と同様、 佐元に対する莉津の言葉遣いはもはや同級生以下になっていた。自覚はある。 ただ、変えようという気がしないだけだ。 アメリカ帰りの佐元も別段気にしている様子はない。というか全く。
委員長は委員長会議なるものに出かけており不在。他の委員は皆自主休講だ。言ってしまえば、体の良いサボり。 図書委員とは名ばかりで、大抵はジャンケンに負けた運の悪い者ばかりが集う委員会と化している。 1ヵ月におよそ90冊も読む委員長なんて例外中の例外なのだ。UMAレベルだ、と莉津は舌を巻く。

「というか佐元よく出席するね」

運の悪い生徒たちが休むのは当たり前。しかし、それ以上に莉津の中では佐元=欠席だった。 図書委員になったのはサボる為だけと思ったのだ。 そんな莉津の心中は露知らず、佐元はニィとどこぞのチェシャ猫っぽく哂った。

「それは――」
「はいはい軟派な台詞お断りですー。お引取り願いますかぁ?」

瞬時に佐元の言いたいことを察した莉津はばっさりと斬る。 隙あらば途方もないことをいうのが佐元の悪癖だ。 佐元が自分に惚れてる確率はタイムマシーンが発明される確率の半分以下だ。 つまりは果てしなく0に近い。自惚れるほど莉津は子どもではない。

「江波ちゃんってばひどーい。オレだって心あるんだよー?」
「はたして双眼鏡で他人の後頭部眺めてるヤツに心はあるのか?」
「違うってー。あれも仕事の1つだって言ってるじゃん」
「余計怪しい。なんの仕事だ。似非金髪は将来禿げるってよ!」
「いやああ!やめてよねー!ぶっちゃけオレもちょっとそれ気になってんだー。将来の研究――」
「しぃいい!!」

2人はヒートアップしすぎて、ここが図書館だという肝心なことを忘れてた。
会議が終わったのか、小柄な委員長が顔を本の入っていない 棚の隙間からひょっこりと出して口に手を当てて現れた。

「もー君たちそんなに仲良いんだったらゴミ捨て行ってきてよね!」

体の良い追い出しだ。案外この委員長人の良さそうな顔してえげつない。 ぶりっ子で接したときも絆されもせず、かといって引きもしなかったのを莉津は思いだす。 すんごく珍種。やっぱりUMAなのだろうか。NASAに売るべきか? くだらないことを考えていた莉津に、佐元がキャピ☆とふざける。

「やっだ。オレと江波ちゃんの初の旅行じゃない」
「キモッ。鳥肌立った!新婚旅行のノリで言うな!」
「誰も新婚とか言ってないしーぷぷっ」
「うざい。今果てしなく誰かをぶちのめしたい。というか誰かと言わず隣の野郎金髪ハゲ野郎」
「それって隣の席の王子様のことかなー?やだ、江波ちゃんってばだ・い・た・ん」
「こぉおんのおかま野郎ー!」
「ちょっと君たち早く行ってきてよ!」

遂には憤慨した委員長により、ぺいっと2人仲良くごみ箱と一緒に図書館の外へと追い出された。

「あーもーこれも全部佐元のせいだーアンタといるとろくなことない」
「何でもかんでも人のせいにすると成長しないらしーよー」
「余計なお世話です!」

アメリカ帰りで一応はフェミニストなのか。 佐元が燃えるごみ、と大きく書かれたごみ箱を持ちながら莉津の後を気だるげに歩く。 ……あの、ちょっと、ずるずる引きずってんですけど。

「細かいことは気にしない気にしない」
「いや、細かいか……?」

その時、突如として豚の音が聞こえた。 ブー、とはなんとも間抜けな音だ。莉津は唐突に酢豚が食べたなくなった。

「ぶた?」
「あ、オレだわー」

佐元は右手で尻ポケットから濃い青色の携帯を取り出した。えーっと……着信音が豚? 莉津は呆気に取られてその手元の携帯を見る。

「あーはいはい……あ?ああ、はい」
「ぶっ…ぷぷぷっ……ぎゃふっ」

笑いがこみあげて堪らない莉津。そんな彼女を佐元が電話しながらも憐みの目で見る。 なんとか笑いを押し殺した莉津が気づくと、どうやら佐元の通話は終わったようだった。

「お取り込み中悪いけど、オレ急用できちゃったんだよねー。ごめんねー?」

女の子に持たせるのも人道に悖ると思うけどー、なんてったってさ、オレ笑いを提供したからね!
何故か爽やかにそう言うと、佐元はスタスタと元来た道を引き返して行った。 莉津は茫然とその背を見送る。おおい!
豚の笑いも何処へやら。あいつ笑ったこと根に持ってやがる。
とんだ振り回されっぷりに 莉津は佐元に精力を根こそぎ分とられた気分でごみ箱を引きずっていく。 細かいことは気にしない気にしない!
ダルそうにズルズルと引きずりながら、莉津はその視線をようやく見えてきた前方のゴミ捨て場へと向けた。

「お?」





智里は珍しく後悔していた。 皇令学院2−F5番、江波莉津。彼の中の通称、馬鹿女。 クラスの中での影のあだ名、最終兵器ぶりっ子。
進級当初は疎ましく思っていた存在だったが、 ここ最近、智里は少女の重要性をやっと理解した。自分ともあろうものが。 やはり女子とは予測不可能な生き物なのだと思う。

「ねね、唐崎くーん」

ああ、うざい。寄ってくるな。触るな。 香水の臭いをまき散らすな。勝手に触んな。お前らには己の領域がないのか!
内心はかなり目の前の女子に怒り狂ってるが、智里の長年の洗練された板についた演技で対応する。 この1か月何かというと莉津が纏わりついてきていた。 彼女は不思議なことに、智里が見えない白線で引いている一線を踏み越えてこなかった。 そんな彼女が虫避けとなり、誰彼構わず女子が群がってきていた以前と比べると断然マシな1か月を過ごしたのだ。 だから、いきなり1年のときの状況に戻されても困惑するだけだ。 そう、人間には慣れというものが必要なのだ、と智里はつくづく思った。

「ホント最近ぶりっ子消えてくれてラッキーだよね」

五感が発達している智里―つまりは地獄耳というのだが―には 2メートルほど離れた斜め前の女子がぼそりと呟くのが聞こえた。そう、本当にそこなのだ。
今までは大変不本意ではあるが江波莉津が防波堤の役割を果たしてきた。いうならば堀だろうか。 女子という外敵から自分という城を守るための。
人間というのは往々にして他人の評価を気にするものである。 ぶりっ子であり嫌われ者の馬鹿女が周囲を気にせずに智里に纏わりついてるのを見れば、 そういった芸当が出来ない女子はやっかみ故に、自ずと悪口やら陰口やらが口をついて出る。 そして、他者への悪意でもって結束した女子たちは、同時に不文律を作って互いに牽制し合う。 抜けがけをしないように。 その牽制こそが自分を守っていたのだ、と今さらになって智里は悟った。 莉津という悪意の対象が佐元遼によって排除された結果、自然と結束は解れることになる。 むしろ今までの水面下の攻防が表面化してくる。 そして、今度はわれ先にと女子たちは走ってくるのだ。智里のところへと。 智里は叫びたいところをぐっと抑える。
モテないクラスの男へのフォローも必要だということを考えろ!
HRが終わり、智里は他のクラスの役員に呼ばれて一旦教室の外に出た。 およそ半時間経って帰ってくると女子が2人立っていた。 その内の1人が、ばっと手の内の何かを差し出してきた。

「あの、唐崎くんのために、クッキー作ったんです!あの、よかったら……」
「受け取るだけでいいから!」

見るからに大人しそうな女子と見るからに気の強そうな女子。智里は、お約束な展開 すぎて思わず失笑しそうになるのを堪えた。

「ありがとう。でも、俺、 そんな君みたいに素敵な子がわざわざ作ってくれたクッキーを貰えるような男じゃないよ?」

智里は笑顔で自分を卑下する。歯の浮いたような台詞も恥ずかしげなくすらすらと言葉にしていく。
大人しそうな女子は一瞬目の前の男に見惚れ、その後ますます俯いた。

「あの、でも、気持ちだけ受け取ってもらえればいいんです!お返事はいりませんから!」
「ちょっと、みつる!」
「いいの、亜矢ちゃん!」

なんなんだろうか、この三文芝居は。真剣にやってる分だけ性質が悪い。 智里は胸のあたりがムカムカするのを感じた。
何故か涙目に去っていく女子その1。続けて、智里に「ちょっとは考えてあげてね!」と叫んで友人を追う女子その2。 足音が十分聞こえなくなったところで、智里は右手に握るピンクのラッピングのプレゼントを見下ろした。

「ただの好意の押し売りじゃねぇかよ」

教室に冷たい一言が落ちる。鼻で嗤う。これだから馬鹿の相手はやってらんねぇ。
気づけば足は焼却炉へと向かっていた。





「お?」

莉津は珍しいことにゴミ捨て場がある焼却炉に人影があることを認めた。長身で男。 段々近寄っていくと、それが隣の席の王子様であることが判明した。 こっちに背を向けて、燃えるゴミ用の大きなケースの前に立っている。 憧れの君、ということだけあって、とりあえず自分の中のカスのような元気をかき集めてコホンと小さく咳を一つ。 1オクターブも高い声はなにかと疲れるのだ。

「ちさ―――」

その時にものすっごく勢いよく振り向いた智里の顔を、莉津は一生忘れることはないだろう。 その衝撃的な顔と共に目に飛び込んできたのは、彼の手から滑り落ちる可愛らしいラッピングのプレゼントだった。 行き先は当然燃えるゴミ。 ってええええええ!?

「……見たか?」

小さく舌打ちした智里は、至極嫌そうな顔をして茫然と立ちすくむ莉津に目を向けた。
唸って唸ってやっと出た莉津の肯定の返事は思わず地声だった。しかし、そんな瑣末なことは今の莉津にとっては どうでもよかった。 ああ!憧れの全国模試トップが実は根性悪だったなんて!!
とりあえず自分を棚上げして存在も不確かな神を恨んだ莉津だった。