砂漠の王 2 春には変質者が増えるという。 「自殺願望者?」 思わず莉津の口をついて出た言葉。呆気に取られたように呟いた莉津。 その視線のさき、本館の屋上を開けた先には陽光に輝く金髪の男がいた。 フェンスの向こう側で双眼鏡で下を除いている。 学院にはいくつもの棟があるが、屋上が開放されているのはここだけだ。 だから知っている者は少なく、来訪者もそう多くない。 入学したときからここで食事を済ませている莉津だったが、人を見たのは今日が初めてだった。 そして、その初めての人間はフェンスの向こうで悠然と立っている。 「んん?」 「げ」 コンパクトな双眼鏡を目に当てたままぐるりと振り返った男。 双眼鏡を外さずに、彼は莉津を目に入れてニィと笑った。 その着ている服を見た莉津は思わず地が出た。 男が学院では知らない人はいないといわれるほどの有名人であることに気がついたからだ。 唐崎智里みたいに良い意味でではない。 「3年の佐元遼……」 「ぴんぽーん!」 ようやく双眼鏡を外した男は莉津に向かって片目を瞑って見せた。 どこか日本人離れした顔は、なるほど、女子が騒ぐ通りに端正だ。 しかし、一番彼を際立たせているのは、なんといってもその身を包むカジュアルな私服。 ちゃんと基準服があるこの学校において、私服になれるのは1人しかいない。 1年前に、その時の2年として帰国子女で編入してきた佐元。 IQが200以上だかで鳴り物入りしたのを莉津はよく覚えていた。 そんな佐元はいきなり挨拶する壇上で代わりに生涯私服宣言をしたのだ。 恐らく用意されていた原稿の内容は違ったのだろう。 しかし、教師は学長を始めとして誰一人止めに入るものはいなかった。 例えそれが反国家的であっても、生徒の主張を賞賛するのはこの学校ならではの光景だ。 生徒の自主性を重んじる気風は創立以来らしい。 一昨年の卒業式にも国会議員が数名参加する中、 現在の日本政治の腐敗を批判した式次第が述べられた。 その時の議員の顔は見物だったと、莉津はその後同級生が騒いでいるのを聞いた。 閑話休題。 佐元遼はあろうことかその席で、 いかにアメリカのリベラル精神が数多の天才を育てたのかを語り、 日本の出る杭は打つ方針の教育をこっ酷く批判したのだった。 しかし、生憎と途中で英語混じりとなったそれを最後まで真面目に聞けた生徒は 片手で数えるほどしかいなかった。 ちなみにIQよりも模試至上主義の莉津にとっては佐元はそこら辺のゴミくずと同等である。 能力なんて使ってなんぼだのもの。 「君、江波ちゃんでしょ」 佐元はヒョイヒョイと猿よりも軽やかにフェンスをよじ登る。 よっと莉津側へと着地し、その場に腰を下ろす。何故自分の名を知っているのだ、 と訝しげに自分を見下ろす莉津を、興味深げに見上げた。 「なんだったらランチに付き合うけど?」 「えぇええ、佐元さぁんとぉ、ランチできるなんて莉津こうえいぃ」 とりあえずクネクネしてみせる莉津。 そんな彼女に、佐元が軽く笑って手を振った。 「裏は取れてるからぶりっ子になんなくてもいいよ、江波莉津ちゃん」 佐元の言葉に一瞬呆気にとられた後、莉津は盛大に顔を顰めた。 「……性格わるっ」 「なによ、極悪人って」 「誰もそこまで言ってません!」 じと目の莉津に、佐元が心外そうに大げさに肩をすくめた。 演技がかっているが、どこかファニーな雰囲気を漂わせていた。 それが更に莉津の癇に障る。 「通りで佐元さん1人だけ私を見る目が違ったんですか」 莉津のぶりっ子は学年に留まらず、学校内でも有名である。 そんな莉津を見る目は、大抵興味深々なオーディエンスの視線である。なにか異物を見るかのような。 しかし、二度ほど廊下ですれ違ったときに莉津を見た佐元の目は違った。 その目には欺瞞を許さない検察のような鋭さがあった。 「随分と観察眼が鋭いみたいだね」 「ええ、印象的でしたしね――まぁ、常にそうせざるをえない状況下ですし」 嫌そうにそう言う莉津に佐元が可笑しそうに哂った。まるでお前が仕向けたことではないか、とでも いうように。耳にかかった金髪を無造作にかき上げた。 ジャラジャラに付けたピアスが無機質な音を鳴らした。 「世渡り下手の江波ちゃん」 「……ところで佐元さんこそ、何で私の名前知ってるんですか」 「全国模試で君の名前載ってたよん」 あの膨大な数の中からか。 よく江波莉津という平凡な名前をよく見つけられたな……。 胡乱げな眼差しの莉津に気づいたのかいないのか、 佐元はまたも可笑しそうに哂った。しばしの間陽光を遮っていた雲がどいたのか、 現れた太陽。逆光で暗く陰った莉津に目を細めた。 「理由は君のこと好きだからだよ、りっちゃん」 手で銃を模す。そのままバーン、と呟きながら佐元は莉津を撃つ真似をする。 ニヤニヤ哂いながら愛の告白を告げる軟派な男。 そんな佐元を許すほど莉津は寛大でも経験豊富でもなかった。 ふるふると拳を震わす。 「……い」 「い?」 「いっぺん死んでこいやぁ!!」 「あだ!」 「ふん!」 丁度お昼に食べようと持っていたミカン。それを 見下ろしていた佐元に投げつけた。そのまま莉津は足音荒く階下へと繋がる階段を 降りていった。屋上には佐元とみかんだけが残される。 「いたたた……あの子ソフトボールとか向いてんじゃないのー」 至近距離からクリティカルヒットしたおでこをさすりながら、佐元はブツブツと呟く。 普段賞嘆されてやまない彼の顔にキスを迫る女は星の数ほどいる。 しかし、ミカンをぶつける暴挙に打って出るのは莉津くらいである。 日本の女子は全員大和撫子というある意味危険発想を持つ彼は、 まさかうら若き日本の17歳の乙女が異性に物を投げる行為を繰り出すとは 思うはずもなかったのだ。 「好きなのはホントなのになー…ねぇ"りつ"」 誰も聞きとることのない佐元の呟きは、雲が過ぎ去った空へと呑み込まれていった。 「やあ」 不本意ながら就任した図書委員の初の会合があると連絡がきた。 図書館内に併設されている会議室へと通じる扉を開けた莉津は思わず条件反射で目の前 の扉を迷わず閉めた。なにか見てはいけないものを見てしまった気がする。気のせいだろう。 寝不足のせいかもしれない。 「あーれー!なにこれ扉壊れてんのー!?開かないよ、いいんちょー!」 「お願いだから静かにしてよおおお、佐元くん!」 向こうから扉を引っ張っているのか、響くのはガタガタとした物音と佐元の叫び声。 そして、それに対する涙声の男子生徒の声が聞こえてくる。 開いてたまるか! 扉を開けようとする佐元の力に負けないように、莉津は全体重をかけて扉を引っ張る。 3人でギャーギャー騒いでいると、ふ、と莉津に人影が映った。 「どいてくれないか」 背後から聞こえた威圧感を含んだ低音。気付けば、莉津は手を緩めていた。 途端、反動で向こう側へと思いっきり開く扉。 うわあ!という涙声が上がる。 見れば、そこには明らかに面白がった顔の佐元と彼に下敷きにされた男子生徒のぐったりした顔が見えた。 「おい、佐元」 莉津を押しのけて平然と会議室へと足を踏み入れたのは七三分けで眼鏡の生徒。 腕組みをしたまま、男子生徒を尻で敷いている佐元を見下した。 「なあに、かいちょー」 まん丸に開いた目に尖らせた口。わざと驚いているのが莉津にも分かった。 明らかに馬鹿にしている。 案の定、佐元のその態度に会長と呼ばれた男子生徒は仄かに青筋を立てた。 「お前が入った委員会のことだが」 「図書委員のことね」 「お前が入るくらいだ。ろくなものじゃないだろう。なので、予算を4分の3カットする」 「ぶはっ」 「ええええ!!」 思わず噴出す佐元。それとは正反対にこの世の終わりとも言うべく物悲しげな声を上げる涙目の少年。 男3人三つ巴。全員が全員違った雰囲気の3人の様子を傍で眺めながら莉津は 一瞬このまま家に帰ることも考えた。しかし、 後が面倒くさそうなので諦めてそろそろと会議室へと入った。ああ、なんて厄日。 「そんなぁ!うちだって佐元くんはお荷も…ふぐっ!」 ばっと身を起こした真面目そうな背の小さい男子生徒。 その胸には図書委員長を表すバッジが付いているが、そんな少年を後ろから羽交い絞めにする佐元。 「かいちょー、理由くらい言ってもいいんじゃない?」 「……ふん。先ほど言ったとおりだろう。理由は貴様の存在だ」 ふごふごと不明瞭な言葉を言いながら顔を真っ赤にして騒ぐ委員長。 対照的に、ニヤニヤ哂ったままの佐元。会長と呼ばれた七三分けは不服そうに鼻を鳴らした。 「なんでそんな蛇蝎のごとく嫌うかなぁ。オレとかいちょーちょー仲良しじゃんね」 「誰が仲良しだ!」 「同じお釜掘った仲でしょー」 「おおおおおお前使い方間違えてるぞ!それを言うなら、釜の飯を食った、だ!」 怒声に混じってほんのりと耳が赤くなる会長。 莉津には、2人の上下関係が見えた瞬間だった。 「とにかく!4分の3カットだからな!」 「だってさー。いいんちょー聞いてたー?」 明らかに佐元のほうが優勢である。 相手のペースに呑まれてると悟ったのか、 会長は小さく舌打ちをして踵を返す。しかし、扉の横に佇んでいる莉津を 見つけると嘲笑をその顔に浮かべた。 「……ふん、頭が弱い女か」 「えぇ〜ひど〜い!」 怒っちゃうぞ!とぶりっ子全開の莉津が言うも、もはやそれすら聞いていない会長は 足早に図書室を去って行った。 「今のってぇ、せいとかいちょーさんですよねぇえ」 「うん、そうそう。生徒会長いつも血圧高めだよねぇえ」 まだ聞こえる会長の荒々しい足音。 それを耳にしながら莉津が喋ると、未だに委員長を羽交い絞めにしている佐元が 莉津のぶりっ子を似せて喋ってきた。 軽く無視する莉津。 「いいんちょおさぁん死んじゃいますよぅ?」 「あ、ホントだ」 口と鼻を押さえているからか、窒息寸前の委員長から今気付いたらしい佐元が手をはずす。 途端に大きく息を吸い込んだ委員長は外見に似合わず大声で怒鳴り散らした。 「なに悠長にやってんの佐元くん!日比谷くんを追いかけないと駄目でしょ!」 「いいんちょー、ここ図書館」 「あ、そうだった!……って、そんなの今は関係ないの!」 委員長は顔を赤くしながら怒涛の勢いで佐元に詰め寄る。漫才みたいだなーと莉津はその光景を目に ぼんやりと思う。 「というかむしろ一体全体なんで本嫌いで有名な佐元くんが図書委員なの!」 「やだなーオレだっていいんちょーと同じで1日3冊は読むよ」 「えぇ!?3冊!?」 委員長の驚愕な読書暦に思わず指を折って数えだした莉津を尻目に、論争は続く。 「違うよ!君の言う3冊は全部雑誌でしょ!?」 「えー日本の法律でAV雑誌も本の一種に定められてなかったっけ」 「AV雑誌が本だなんて法律は存在しません!」 「あ」と莉津が呟く。 段々と新しい図書委員が集まってくる中、委員長の声は殊更響いた。 しーんと静まり返る図書館。 野次馬のごとく興味津々に見てくる新しい図書委員たち。 そんな彼らを前に、はっと我に返った委員長は 慌てて取り繕うように消え入りそうな声で付け加えた。 「いや、いえ、あの、えっと……ぼ、僕はAV雑誌なんて見ないです!!!」 しーん。 場が益々静まり返ったのは言うまでもない。 後日談。 3年の廊下では、人の噂は七十五日をブツブツと呟く図書委員長の姿が目撃されたとかされないとか。 最近隣の馬鹿女の様子がおかしい。智里は訝しげに横目で隣りに座る莉津を見やる。 いつもなら「莉津はぁ、」から始めてどうでもいい情報ばかりをベラベラと喋る筈なのだが、 近頃授業終了のベルが鳴ると同時に物凄い勢いで席を立ち上がる。 別に気にすることでもないが、気になってしまう。 「ねぇ江波さん」 「ごめんねぇ、莉津今ちょー忙しいの!」 智里は勢いよく立ち上がった莉津に声を掛けた。 しかし、莉津はきゃぴっとポーズを取ると猛ダッシュで前方の扉の方へと駆けていった。 それに半ば呆気に取られながら、智里は後方の扉を見る。 ……まぁ原因はアレだろ、どう見ても。 「江波ちゃーん!」 後ろの入り口で声を張り上げる男1人。 度重なる男の登場にもはやどよめかなくなったクラス。 ここ1週間ほど、突如3年になってアメリカから編入してきた佐元は 毎回律儀に授業後に莉津のもとへと訪れる。 つまるところ。 「ねー王子ー。江波ちゃんまたいないのー?」 「そうみたいですね」 智里は自身の肩にずしり、と重みを感じる。 馴れ馴れしく人の肩に腕乗っけるんじゃねーよ、この金髪ハゲ! とはおくびにも出さず、智里は笑顔を顔に貼り付けて佐元に対応する。 「あの2人ホント絵になるよねー」 「正統派美青年の智里様もいいけど、アンニュイな感じのキングもまたいいのよねー!」 智里の地獄耳に、ひそひそと右斜め後ろで女子の興奮した囁き声が聞こえる。 莉津の席に腰を下ろした佐元。その机に頬杖をつき、ニヤニヤ哂いながら智里を見た。 「聞いた?王子ー」 「何でしょう」 「オレ、キングだってさ!」 親指を自分に向けて「敬いたまえ!」と公言するヤツのどこに敬うべき点があるのか。 智里は首をかしげる。是非とも教えてほしいものだ。 むしろキングという傍から見れば敬称も、コイツの傍若無人ぶりを揶揄しての名称だろう。 こいつIQ高いのに知恵はねーんだな。 満足げに笑む佐元に、智里は読んでいた本を机へと置いた。 「佐元さん、1ついいですか?」 「ウイ。なんでもどーぞ」 「なんでこんなに江波さんの元へと来られるんですか?」 佐元がわざとらしく大仰に驚く振りをし、両の手のひらをこちらに向けた。 智里にその真意は図りかねた。 「んん?おやおや我が王子は江波さんに御執心なのかねー」 こいつ……なまじっか演技力があるだけにムカつく。 智里の心中を知ってか知らずか、 佐元は顔をぐいっと近づけた。その異国情緒溢れる瞳は面白いことを見つけた様にキラキラと 輝いていた。 「オレ、りっちゃんのこと好きなんだよねー」 ぼそぼそと喋られた言葉に 開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ、と智里は感じた。 2人の間の距離感が原因で後ろのほうで女子が何やら騒いでいる。しかし、問題はそこではない。 問題は佐元遼の女の趣味が破滅的にヤバいということだ。 やはり天才と狂気は紙一重なのか? ということは自分もいつかはコイツみたいに頭がわいてしまうのだろうか。 智里はそう考えて思わず鳥肌が立つ腕をさすった。 「だーいじょーぶー?王子顔面蒼白じゃんねー」 衝撃故に何も言うことができない智里。 そんな彼になおも顔を近づけたまま佐元は喋る。 智里は頬を引きつらせながら目の前の顔を見る。 やはり女子が騒ぐだけあって、佐元の顔は端整だ。最近流行りの中性的な顔…… 「!?」 佐元によって、いきなり智里の頬は両手で挟まれた。 後ろで俄かに大きくなる女子の黄色い歓声。 なに、コイツってそっちの気もあったのか!? 「ねー王子。人の本質を見抜けない子は賢くなんてないんだよん。分かってる?シャトンちゃん」 「は?」 シャトンはフランス語で子猫という意味だ。 しかし、そう揶揄されていることを理解できないほど智里の思考回路は停止していた。 佐元はちらりと女子に流し目をした後(ここで鼻血2人)、 自分の額と智里の額を合わせた。(ここで失神1人) 目を丸くする智里にニヤニヤ哂いを一つすると、 さーてと、と席を立ちあがる。そして、そのまま何事もなかったかのように 入ってきたときと同様軽やかに教室から出て行った。 佐元との根も葉もない噂を打ち消すのに約2ヶ月もかかった智里は悟ったことがある。 曰く、この世には飢えた女子と噂ほど恐ろしいものはない。 |