砂漠の王 1



「今日は委員決めっぞ!」

ぱっと見、日本人らしからぬ長身。 体育教師でもある担任がいつもの如く 無駄に大きな足音を立ててクラスに入ってきた。 いつもならそのくらいでざわめきは止まないが、 その言葉を聞いた瞬間、 教室中は一瞬静まり返った後、蜂を突付いたように上から下へと大騒ぎになった。

「おい、お前ら!奉仕精神を持て!ボランティアスピリットだ!」

ばん、と教壇に叩きつけられた教師の両手と、しーんと静まり返った教室。
みんながみんな互いに誰が処刑台送りになるのかを見極めようと、探り合っている。 委員という名の処刑台へ。

「こうなったらくじ引きにすっぞ。国公立目指してる奴も関係なく対象内だからな」

ニヤリと不適に笑う担任。 国公立も私立も同じ大学だろ!?関係ねえ!そんな叫びが聞こえてきそうである。 そんな担任を前に、莉津はうめき声をあげそうになるのを寸前で堪えた。 ケーキ屋で言えばクリスマス。まさしく繁忙期。 この忙しい受験生の時期には誰だって奉仕精神なんて掲げてられない。 ボランティアなんて心に余裕があるヤツがするもんだ。 つまりは余裕なんて小指の先ほどもない受験生は、 役員なんて面倒くさいしか出てこないものは出来る限り避けて通りたい。 受験自体他人を蹴落としてなんぼの世界なんだから、 今クラスに貢献しようとか考えてる人間の割合なんてUMAレベルだ。 是非とも捕獲したい。莉津は密かにため息を吐く。
そんなとき、すっと手が挙がった。 クラス中にどよめきがはしる。誰だ、勇者は。 興味深々な顔が向いた先は頭を抱えた莉津の隣り。

「俺がクラス委員やります」

挙がった手を華麗に引っ込めて高らかに宣言したのは唐崎智里。 近年稀に見る王子様だ。
容姿端麗、頭脳明晰、スポーツ万能。天は彼に2物も3物も与える。 それにお家柄もよし。加えて性格も二重丸。 どこに文句のつけようがあろうか。辛口評論家も二の句を告げないだろう。
莉津は頭から手を離す。そして、 羨望の意を込めた眼差しで右隣の王子様を見上げる。
莉津は高校編入組であったが、一度も唐崎智里を見たことがない中学時代からその名前だけは知っていた。 何故なら、全国模試等々のトップを飾るのはいつも彼の名前だったからだ。
どんな七三分けで分厚い眼鏡の女かと思ったら、 入学式の総代で立ったのは爽やかイケメンでひっくり返った覚えがある。 隣りの心優しき少年が支えてくれていなかったらパイプ椅子ごと後ろに倒れていたに違いない。
莉津の回想をよそに、 クラスはまさしく人間と思えない智里の登場に一気にどよめいた。

「おぉ!唐崎!お前ならやってくれると信じてたぞ!」

莉津は隣りを見ていた時の視線とは一転、冷やかな目線を教壇に送る。 いつもながらにこの教師はなんて感情の起伏が激しいのかと思う。 今なんて心からの涙目だ。
そんな教師の思惑通りか否か、 智里がクラス役員をなると決まったら、途端に騒がしくなる女子。 残り1枠のクラス役員を巡って今まさに大乱闘が始まろうとしていた。
憧れの王子様と同じ役員。滅茶苦茶効率がいい勉強方法を聞けるかもしれない!
莉津も女子の凄まじいレースに乗ろうかと考えた矢先に、 感動屋の担任と目が合った。うわ。 一転して鬼の形相になった担任は吠えた。まさしく。

「くぉら!江波!お前は図書委員だ!ちょっとは真面目になれ!」
「えぇえー。莉津そんなのやですぅ!もっと華やかなのがいいぴょん!」
「許さん!断じて許さんぞ!」

くそ!この熱血教師が! 莉津は心の中で思いっきり担任をなじる。 自称・筋金入りのガリ勉。 智里から効率のいい勉強法を聞き出せないなら、 委員会なんて入らずにさっさと家に帰って勉強したいのが本音だ。
実際、この教室内でボランティア精神に一番欠けてるのは自分な気がしてきた 莉津。どうやって切り抜けようかと思案していると、 横からくすくすと笑う声が耳に届いた。
思わず右を見た莉津は、 智里の柔らかな微笑みとぶち当たった。 ああ、王子様は眩しすぎてくらくらする。

「なぁにぃ?」
「ううん。江波さん理知的だから図書委員似合ってるよ」

ずっきゅーん。莉津のハートを射抜く智里の言葉。
智里の思いがけない言葉にぶっと噴き出す教室の声は都合良く、 莉津の耳には届かない。 代わりに莉津は未来の自分に赦しを請うた。恐らくはセンター試験を 受けているであろう、自分に。 ああ、面食いな私をどうか許して。
その後、案外トントン拍子で進んでいた委員決めだったが、 最後の最後で問題の女子のクラス役員決めが行われた。 智里と同じ役員となるべく 般若の形相をした女子の争いを制したのは今どき珍しいおさげ姿の女子。 やっと決まった委員。 元気がありあまるほどだった担任は 女の恐ろしさを目の当たりにしたからか、 げっそりとした顔で教室を出て行った。アーメン。



教科書を鞄から出していた莉津は自分に掛かった影に顔を上げた。

「ちょっといい?」

見上げると、ポニーテールでつり目の女の子が莉津を見下ろしていた。 粗方の予想はつく。
しかし、莉津は何が何だか分からない、という風に装う。 馬鹿なふりをしているのは何かと都合がいいのだ。 頷いた莉津は、ポニーテールの子に続く。 無数の好奇心を剥き出しの視線を纏いながら廊下に出た。 花粉症対策か、マスクをかけた人がチラリとこちらを見て階段へと消えていった。 幸か不幸か廊下には誰もいない。口火を切ったのは向こうだった。

「あなたねぇ。いい加減唐崎様に近寄るのやめなさいよ!」
「そうよ。迷惑してるの分からないの?」

おお、怖い怖い。朝のHRを思い出して改めて女の恐ろしさを 実感する莉津。どうやら思考が飛んでいたらしい。

「ちょっと、聞いてるの?」

眉をひそめた目の前のリーダー格らしきつり目の子のなじりに 莉津は口を尖らせた。にこりと笑う。

「うぅーん、莉津ちょっぴし分からないかなぁーてへ!」

3人の顔が不快気に歪む。
うんうん、私もこんな子がいたら嫌だ。近寄りたくない。
その様子を見て莉津は深く頷きそうになる 自分を抑えた。危ない危ない。

「明日香は唐崎様のことが好きなの!誰よりも!」

つり目の子の横にいた髪型がボブの子が声を荒げる。 冷静さを失った女子に莉津は心中肩を竦めた。
ふーん。いつまで好き好き言い続けていられるんだか。
やんやと騒ぐ3人に、莉津はすぅ、と息を吸い込んだ。

「莉津はぁ、智里くぅんがシアワセになってくれればいいのぅ」
「は?」

呆気に取られたようにこっちを見る3人に、にっこりと笑ってみせる。 伊達に年単位で演技してきてるわけではない。 案外、人の内面を見抜くことは簡単そうに見えて難しい。莉津は クネクネと身をよじらせた。

「莉津にとってぇ、智里くぅんは王子様なのぅ。カレピじゃないのよぅ」
「カレピとか古っ」

ポニーテーの子の左隣の茶髪の子が勢いよく突っ込む。 いいツッコミ。でも同級生を様付けで呼ぶのもどうかと思うぞ。 そんなことを内心つらつら考えていると、真中にいた女子が眉をひそめた。

「じゃあアンタは唐崎様のこと狙ってないってわけ?」
「うぅーん、ストレートにいっちゃいやん」

またしてもクネクネと恥ずかしがってみせると、 全員引きつった顔で半歩引く。ああ、まともな感性だ。

「もうこの子ほんとに頭悪すぎ。中学でも嫌われてたらしいし」
「こんなんじゃねー。ま、害はないっぽいし、大丈夫じゃない」

不快感を露わにしてポニーテールの子を真ん中に背を向けて去っていく3人。
さすが皇令。県内でも1、2を争う進学校なだけある。誰も不利益な争いはしない。
それがどれほど無意味かを知っているからだ。そして、莉津は知っていた。

「ただいまぁ、智里くぅん」
「おかえり」

王子様の微笑みをもつ智里。莉津もつられて笑みを返す。 その内面はまるで曇ったガラスで覆われたように何も見えない。 ゴキブリホイホイかのごとく人間ホイホイな智里は、 無作為に人を寄せ付けているのではない。全くもってその逆だ。 無造作に他人を寄せ付けないのだ。誰も彼の一歩踏み入ったことは知らない。 まるでいつまでもゲストかのように接する。 そして、そう接するよう仕向けてるのは、他でもない智里だということに莉津は 気づいていた。腹に一物を抱える莉津だからこそ気付けたのかもしれない。

「大丈夫だった?」

心配そうに眉根を下げる智里に、こてんと首を傾げてみせる。

「なにがぁ?」
「……いや、ううん、何でもないんだ」

誰も彼を本気で好きになったりしない。 本気で人を好きになることを未だ莉津は知らなかったが、 それだけは直感が報せていた。全員熱に浮かされてるだけだ。
人の内面も知らずに好きと言い続けられるほど人は愚かではない。 つり目の女の子もいつか隣の席に座る子とか同じ部活の子とかを好きになるんだろう。 そんな確信が莉津の中にはあった。

「中学のときの嫌われ者、ね」

思わず口をついて出た言葉に、慌てて口を紡ぐ。
不思議そうな顔でこちらを見やった智里。 莉津が能天気な笑顔を送ると、向こうも満面の笑みで返してきた。 智里のパーソナルスペースが異常に広いことを察知した莉津だったが、 まさか智里も腹に一物を抱える同属だとは夢にも思ってもみなかった。

「あ!莉津ねぇ、今話題の映画のチケット2人分もってるんだけどぉ、どぅかなぁ?」

莉津は少し大きめの声で智里に話しかける。 背を向けてたさきほどのポニーテールの子の肩が一瞬ぴくりと動いた。 それを横目で見やった莉津は、ニヤリと人知れず笑う。ハンムラビ法典に則った生き方だ。 目には目を、歯に歯を。
返事がない智里を見ると何やら思考中で莉津の声は耳に届いていないようだ。

「……聞いてるぅ?いいかなぁ?」
「あ、うん」

ま、いつものとおり断ってく…は?
てっきり普段のように断ってくるだろうと踏んだ莉津は一瞬呆気にとられた。 まさか肯定が返ってくるとは。 思わぬ智里のリターンに莉津は半歩後れを取るが、 とりあえず相手に調子を合わせることにした。

「やったぁ!智里くぅんってば莉津と映画みにいってくれるってぇ」

満面の笑みでそう言うと、我に返った智里は珍しく焦った様子を見せた。

「あ、江波さん!俺は……」

ああ、やっぱり断るつもりだ。言葉の綾ってやつか。紛らわしすぎる! 莉津はいつもの様子に戻った智里に心の中で安堵の息を吐いた。 これ以上つり目の女子をからかって、無駄にクラスの女子の反感を買うのも頂けない。 莉津は智里の言葉を切るように、パチンと両手を合わせた。

「あぁ!でも莉津ってばぁ、土曜はだいじぃな予定があったんだぁ!ざんねぇん」
「そっか。今度は俺から誘うね」

出た。常套句。イケメンはこれで許されるから困る、と莉津は肩をすくめた。
一方通行だったが故に、莉津が喋らなければ自然と会話はなくなる。 前に向き直った莉津の脳裏に、ふとある思いがよぎった。
その爽やかな顔と好かれる性格さえ持っていれば、中学時代も平穏に過ごせたのだろうか。
ゆるく首を振った莉津は自嘲気味に鼻をならした。



「唐崎ーお前、この問い分かった?」
「ああ、そこはXにあたる数式を代入すれば解けるよ」
数学の教科書を片手に訪れた同級生。 智里はどれどれと手元を覗きこむと、数秒で答えを導き出した。
「サンキュ!」
どうやらそれが目的だったらしい。そそくさと帰っていく生徒の背に、智里はすぅと目を細めた。
周りはとても馬鹿ばかりだと思い始めたのはいつごろだっただろうか。
幼稚園にいたときには既に周囲はとても幼すぎて溶け込めなかった覚えがある。
その思いは高校生となった今となっても変わらない。 逆に日に日に強くなっていくのを智里は感じていた。
高2の授業に度々高3の授業内容を持ってきては恥を掻かせようと躍起になる馬鹿教師、 目の前のことばかりに捕らわれがちなクラスメイトたち、 そして、左隣に座る能天気にもほどがある馬鹿女。 まるで頭に花畑が無数にあるかのように会話能力ゼロ。勿論思考能力もゼロだ。 しかし、智里は辛抱強く我慢して付き合っている。そうせざるをえない理由が彼にはあった。
人間というのは自分より愚かな者は蔑み、賢い者を妬む生き物。

「賢者は愚者に学び、愚者は賢者に学ばず」

それは太古の昔より変わらない。 忌むべき数々の史実はそうした人間の性をよく表している。 歴史に習えば、賢い者の立場にいる者は十分に凡人に気をつけなければならない、という話だ。
賢い者には周囲の妬みの対象とならないように2つの方法があると智里は考える。
1つは自分を偽ることだ。 馬鹿だと周りに思わせておけば、一先ずの妬みは回避できる。 問題となるのは必要以上の蔑みだが、肝心な場面でヘマしなければそれも回避できる。 賢ければそのくらいは朝飯前だろう。
2つ目は圧倒的な力の差を見せ付けることだ。 それは何も学力だけではない。全てにおいて超越した者を、もはや同じ土俵の上の人間 だと思う奴はいない。 いたとしてもそれは少数派だ。 大方の人間は諦める。そして賞賛側へと回るのだ。おこぼれをもらいに。
そして、智里は後者を選んだ。
だからこそ、人格者としても卓越していなければならない。 だからこそ、面倒くさいことこの上ないクラス委員なんて役職も引き受ける。 だからこそ、隣の馬鹿女にも優しくしてやっているのだ。 でなければ誰がこんな最も忌むべき馬鹿女と話なぞするだろうか。 智里は金魚の糞のように他人に付いて回る、自我が独立してない人間が一番嫌いだった。

「……聞いてるぅ?いいかなぁ?」
「あ、うん」

誰か目の前で人差し指同士をくっ付けている馬鹿女をどかしてくれ。 智里は思わず眉間に手をやりそうになった。馬鹿になりそうだ。
しかし、そんな俺の願いも虚しく、 何故か莉津はぱぁと花が咲いたみたいに満面の笑みになった。何でだ。

「やったぁ!智里くぅんってば莉津と映画みにいってくれるってぇ」

は?一瞬呆気に取られる智里。

「あ、江波さん!俺は……」

智里の言葉を遮るようにパチン、と莉津が大げさに両手を合わせた。

「あぁ!でも莉津ってばぁ、土曜はだいじぃな予定があったんだぁ!ざんねぇん」
「そっか。今度は俺から誘うね」

智里はほっと胸を撫で下ろした。こんなヤツと土曜も一緒にいるなんて堪ったもんじゃない、というのが本音だ。
しかし、考えてみると、案外と江波莉津という人間はしつこくない。
普段はベタベタしてきやがるが、 意外と引き際は潔く肩透かしをくらうことがしょっちゅうある。 誰にでも長所はあるってことか……なんか違う気もするが。

「なぁにぃ?なにかついてるぅ?」
「ううん。大丈夫だよ」

まさかな。こんな馬鹿女がそういった高度な計算の類ができるはずがない。 ああ、でもこの間の化学の小テストは結構難問揃いだったのに満点だった。 まぁどうせあれもマグレだろう。 運だけは強そうだしな、と智里は莉津をしげしげと眺めて思う。 地震で建物が倒壊しても1人だけ生き残りそうだ。
いずれにせよ、人の本質も見抜けないようなヤツが賢いだなんてある筈がない。 まぁ自分の演技が卓越してるってこともあるんだろうが。
とりあえず早いところ席替えしたい、というのが智里の最近もっぱらの悩みだった。