砂漠の王 0 黒板にはいくつもの数字が規則に沿って並び書かれている。書かれている数式を見るに恐らく内容は微分だろうか。 春の暖かな空気の中では暑苦しいだけのグレーのスーツを着た男は 長い問題文を何ら滞りなく書き終えると、パンパンとチョークで汚れた手を払った。 その粉は窓からの陽光に照らされ、前列の生徒は若干顔を顰めた。 しかし、そんな些細なことには全く気づいた様子のない男は教壇へと向き直ると、口を開いた。 「じゃあ、この方式は、そうだな……」 教壇の上に置いた教科書から顔を上げた数学教師の目はまるで鷹のごとく光り、あたかも獲物を狙うように 眠そうに欠伸をする前列右側の男子をとらえた。 例えそれが酸素を補給するための行為であろうと、自分の授業で欠伸をする生徒を許さないのは彼のモットーだ。 「余裕そうだな、朝比奈?」 朝比奈、と呼ばれた不運な男子生徒は窓際という特等席故の容赦なく射し込む暖かな光に舟を漕ぐ。 実際、教師の声が彼の耳から脳まで通るまでに普段の二倍は要した。 「分かりません」 もはや完全にお手上げ状態。顔を上げることさえせずに、眠そうに目を擦りながらも躊躇せずに即答する。 普段お調子者の彼の明るさは眠気の中にそのなりをひそめている。 教師はそれに侮蔑の視線を送る。正直、彼は子ども自体が嫌いなのだが、不真面目な生徒はそれに輪を掛けて嫌いなのだ。 しかし、無言で咎めるだけにとどめたその目は後ろの席へと移った。 「荒井」 「……」 赤いフレームのメガネを掛けて、髪をハーフアップにした姿がトレードマーク。 普段は生真面目そうな女子生徒はその外見に似合わず顔を突っ伏して夢の中だった。 耳を澄ませば穏やかな寝息も聞こえてきそうだ。 隣りの生徒が慌てて起こそうとしたが、男がそれを待つことはなかった。 「石川!」 「できません」 全国優勝を目指す短髪の弓道部のホープは律儀に立てた教科書からチラリと その鋭い眼光を教師に向けてからまた戻した。 まるで正答を言い当てたかのような堂々たる様に教師は ほんの僅かにだが、苦虫をかみつぶしたような顔をした。 男の目には、男子生徒の態度は偉そうな態度に映ったのだ。 石川のノートの上には黒板の文を写すのを諦めたかのごとくシャーペンが転がっていた。 「五十嵐」 「へへ、無理っす」 石川の後ろに座る、人懐っこいと評判のクラスで一番小さい少年は笑顔のまま頭をかいた。 国語科の中年女教師―少し小太り―だったら簡単に絆されてしまう小動物のようなその姿には勿論応じない。 ふ、と1つ冷笑をこぼした。近頃の生徒の退化は見るに堪えん。 心中でそう呟き、その後ろの席へと目をやった教師は微かな嘲笑を浮かべて肩をすくめた。 正直、解けるとは一ミリ足りとも思っていない。 「江波莉津」 「えええー莉津は無理ですぅ。こーんなむずかしぃもんだーい!」 セミロングと言えるだろう髪を手で必要以上に触りながら、 考えられる限りの甘ったるい声で答えた少女に教師の嘲笑が深まる。 怒りを通り越して呆れるほどだ。 この麗らかな陽気の中、辛うじて起きているクラスメイトの大半も皆一様に呆れ顔となる。 同じクラスとなって1ヶ月ばかり立つが、未だに生粋のぶりっ子である莉津に慣れていない様がありありとわかる。 実際、拒絶しているのだが。 その時ばかりはクラスと同調した教師だったが、少女の隣りに視線を走らせるとその目をキラリと光らせた。 まるで獲物を狙う狡猾な蛇のように。 「おい、唐崎!」 実際のところ、少女の後ろにもう1人生徒が座っていたのだが、 教師はその存在を鼻から無視して、 鋭利な矛先を1人の少年へと向けた。 未だにクルクルと髪を弄ぶ少女の隣に座る少年へと。 「はい」 律儀にノートに黒板の文を書き写していた少年は顔を上げ、教師と目を合わす。 日本人にしては珍しい漆黒の瞳。 その隙のない流れるような所作に教師は不満げに鼻を鳴らした。 全くもって気に食わない生徒だ。 「お前くらい優秀ならこのくらいは出来るよな?前に出て書いてもらおう」 「はい」 教師のはっきりと分かる嘲弄。 しかし、きちんと背筋を正し、前を向いて座っている少年は 動じた様子もなく、爽やかな笑みで頷く。 それを見た教室中の女子が一斉にほぅ、と恍惚とした顔でため息を漏らす。 もはやそれは見慣れた光景だった。 教師は微塵も気にすることなく僅かな嘲笑をもってチョークを少年に渡した。 少年の出来のよさはこのクラス、いや、この学校の中でも抜きん出ている。 その優秀さだけではなく、アイドルさえも霞むかのような端正な顔立ちは周囲のものを惹きつけてやまない。 しかし、今のこの教師にとってはそれは顔の周りを飛び回る蝿のごとく。 正直に言ってしまえば、蠅叩きでもって即座に叩き落したいものだった。 「以上です」 よく出来た頭と同じくよく出来た横顔を憎憎しげに眺めていた教師は、はっと我に返る。 目の前でにこやかに少年が差し出したチョークを受け取り、 黒板に書かれた数式に目を通そうとしたが、ふと怪訝そうにその眉をひそめた。 直ぐに席に戻ると思った男子生徒が今時の高校生にしては無垢すぎる顔で自分を見ていたからだ。 なんだ、と目で促す。 「先生、私見に過ぎませんが、この問題はやや難解すぎませんか?」 「ふん、そうか?」 男の顔をうかがい見るように、恐る恐るそう切り出した生徒。 教師は冷笑を返した。 なんだ。結局このレベルか。 教師は少年が解けなくて困惑していると思った。実際、この問題は解けなくて当然なのだ。そう、当然。 困惑顔の少年をよそに、至極満足げに黒板を眺めた教師は、さっとその顔色を変えた。 書かれてあった答えはまるで模範かのごとく完璧な数式。 馬鹿な。 難問を数秒でなんなく解答した少年に、小さくクラスが沸く。 一瞬で我に返った教師から忌々しげに 小さく打たれた舌打ち。しかし、それに気づかなかったように、 少年は完璧な笑みで己の感情を塗りつぶした。 「お前が解けるんだ。難解なわけあるか」 「そうですね、俺の考えすぎでした」 やや感情的になる教師。 対照的に、少年はにこりと微笑んで黒板に背を向けた。 実際のところ、少年が淀みなくスラスラと書いた数式は解けなくても当然のものだった。 何故なら、高校2年では見受けられない定理も含まれていたのだから。 しかし、それに気づいたのはクラスの中でも極僅かだった。 「すごかったねぇ、智里くぅん」 「ありがとう。大したことじゃないよ」 智里は席に戻ると、 キラキラとした目で自分を見上げる隣席の少女、江波莉津に苦笑を返した。 腹立たしそうな教師が練習問題をふっ飛ばし、 次の項目に移ってもなお興奮が冷め止まない教室。 未だ女子の囁き声が蔓延し、教師は先ほどよりも苛立ちが増した様子で板書を続けている。 莉津は、乗り出した身を引っ込めて、一旦は黒板に書かれた式を写し取っていた。 しかし、数分もしない内に何かうずうずしたかと思えば、右隣の智里へと身を乗り出した。 勉強なんてそっちのけだ。 「あたしびっくりしちゃったよぅ!あの問題むずかしぃもんね!」 「……そうだね。数Cの内容も間違えて混ぜちゃったのかな」 生徒に書き写す時間を与えず、さっさと黒板消しで消していく 教師。その背を眺めながら、智里は 近寄りすぎな隣の少女から若干身を引いた。 しかし、笑顔はなおもその顔に貼り付けたままだ。 莉津はそのことに何も気づかないようで、ぐいと更に身を乗り出した。 「うん!行列なんて習わないもんねぇ。あたしさっぱりでぇ」 「先生のミスだよ、きっと」 クネクネとした莉津の動作。それを横目に、教科書を捲りながら智里は答える。 そっかー、と能天気そうな声と 共に離れていく莉津に内心助かった、と安堵の息を吐く。 正直、この少女は苦手なのだ。 しかし、ノートにペンの先をつけたとき、彼の頭に1つの疑問が浮かび上がる。 あ?俺、行列が含まれてるって言ったか。 「でもぉ、ほんとぅ智里くぅんってすごーいよねぇ」 「ああ、ありがとう。照れるな」 微かに智里に浮かんだ疑問。 しかし、それは莉津の甘ったるい声 にかき消されてすぐに消えていった。 実際、彼女の声は甘ったるすぎて、智里には気の抜けたコーラを連想させた。 「おい、そこ喋るな!」 「きゃっ!こわーい!」 教科書から顔を上げた教師の叱咤が飛ぶ。どうやら苛立ちは未だ上昇傾向にあるらしい。内職をしていた生徒はこそこそと机の中に しまっている。 少年は自分には非がないにも関わらず、ごめんねと 心底申し訳なさそうに莉津に謝る。 それに莉津が口に手を当てながら微かに哂ったところを見たものは誰もいなかった。 「智里くぅんは、模試でもいちばんなんだよね!」 「うーん……運がいいだけだよ」 「えーそんなことないよぅ!すごいよぅ!」 「そんなに凄くないよ」 授業の合間の10分休憩。智里は一向に進まない本を片手に、 左隣に座る莉津の相手をしていた。 キラキラと見上げてくる莉津。 そんな莉津に突き刺さる無数の女子からの痛い視線。 正直に言うと、智里は周囲の目を気にしない莉津がいつも不思議に思っていた。 「あ!」 突然パチンと手を鳴らした莉津を不思議そうに見やる智里に、莉津が恥ずかしそうに笑う。 「莉津ってばおトイレ行きたくなっちゃった!」 「あ、うん。行っておいでよ」 2年に進学したときから始まった隣づきあい。 強引すぎる莉津に、段々とその不思議ちゃん言動に慣れつつある智里だが、 呆気を取られたように辛うじて促した。 おトイレって。……お手洗いじゃないのか?普通。 バタバタと変な走りで教室から出ていく莉津をぼんやりと見やり、智里は手元の本に目線を移した。 これでやっと邪魔が入らずに本を読むことができる――と思った矢先だった。 「ねぇ、唐崎くーん」 一瞬引きつりそうになった顔を平静に保つ。 智里は顔を上げた。 「なに読んでるのー?」 机に手を突いて本を覗き込んでくる女子は両津明日香。 その肩越しにこれまた興味深げに、 こっちは智里の方をぽぅと眺めてる園田麗子と真柴さと子。 頬が紅色に染まっている。 このクラス内でも権力を握ってるほうの女子3人組だ。 彼女たちは莉津がいない隙を狙ってよく智里のもとへとやってくる。 ボスは両津明日香だろうか。智里はにこりと笑った。 「ただの物理の本だよ」 本の名を告げるだけで何故か色めきたつ女子3人。 顔を見合わせてキャーキャー言ってる目の前の女子たちに智里はため息をつきたい衝動をなんとか抑えた。ああ、なんだか頭痛がしてきた。 今度は頭を抑えたい衝動にかられた智里を前に、目の前のガールズトークはヒートアップしていく。 「でも本当江波さんって邪魔よね」 「言えてるー。頭も悪いしね」 「なんでこの学校入ったか分からないよねー」 「ほんとほんと!さっきの数学の江藤のときもアイツ顔引きつってたし」 生徒からは不人気すぎて有名な数学教師の江藤への愚痴もほどほどに、 自然と話題は常に智里にくっついている莉津へと向かう。 智里はいつもの笑みを浮かべながら考える。 ――お前らも馬鹿だろうが! 声を大にして叫びたいほどである。 「……よね、ね、唐崎くん」 「え、ああ、そうだね」 「でも唐崎くんに比べたら私たちも馬鹿だよねー」 「明日香ってば。そんなん愚問じゃない!」 またしても盛り上がる3人組を前に、智里は笑顔の奥で考える。 全くもってその通りだよ。ちっとは自覚しろ。 「ねー唐崎くん」 媚びたように智里を見る女子生徒の目には、 智里の否定を期待していることがありありと浮かんでいる。 いや、もはや彼女の脳内にはその答えしかありえなかった。 数秒その目線に付き合った後、雄弁な視線が語る期待に答えるかのように智里は緩やかに首を振った。 「いや、全然そんなことないよ」 「えー!!唐崎くんって優しいー!!」 満面の笑みでそう答える智里にほぅっと何処からともなくため息が漏れる。 目の前で両手を組んで頬を赤らめる女子。智里は心中で一言。 くたばれ。 県内でも有数の進学校、皇令学院2−F11番の唐崎智里は、いわゆる根性がひん曲がった優等生なのである。 そして、肝心の彼女はというと。 「おーい、江波ぃ」 「はぁあい!」 トイレ帰りで職員室の前を通りがかった莉津は元気に返事をする。 その直後、自分を呼びとめた担任を見上げて不思議そうに首をかしげた。 担任の180を超える大きな体が何故か一回り小さく見えるほど、 取り柄である元気がない。何でだろうか。 「せんせぇ?」 「お前なぁ……何でそんなキャラなんだよ……」 はぁ、とぐったりする担任。その様子に、 莉津はどうやら原因は自分にあるようだと合点する。 しかし、そのしょぼくれた背中をポンポン叩いて楽しそうに笑った。 「莉津はいつも元気なんですぅ!」 元気モリモリ!とどこぞのアイドルかのように担任に言う。 「江波ぃー俺はお前みたいなアホキャラが将来日本を背負って立つのかと思うと夜も眠れず……」 「きゃは!もぅ〜莉津は日本なんて背負いませんよぅ」 両手で口を可愛らしく押さえたままの莉津の言葉。 それを聞いた担任は突然ばっと顔を上げた。 「お前、あの結果でそれを言うのか!?」 模試の! 「いやん。せんせぇったら勝手に見ちゃったのぅ?」 「お前、全国でも上から数えたほうが思いっきりはえーじゃねぇかよ!」 さっき見て驚愕したぞ、俺は! そう言いながら右手で提げた紙は春の全国模試の結果。 莉津の名前の横には二桁の数字が見える。 脅威だ。 実際、初めて目にしたときには幾度となく目を擦ったくらいである。御蔭でコンタクトが外れて目が充血した。 「てへ。莉津ってばてんさいなのかもぅ」 やったーともろ手を挙げて喜ぶ様は正しく小学生。 担任はその様子にまたしても暗澹たる様で肩を落とす。 「日本も終わりだ……いや、ちょっとこい!俺が説教したる!」 「せんせぇー授業始まっちゃうぅ」 「ええい!んなのは休講だ!休講!」 威勢の良い声を上げて莉津はずるずると教師に引っ張られる。 莉津はじたばたと手加減して暴れながらも、ふ、と思考を飛ばす。 一体この担任は私が毎日何時間勉強してると思ってるのだろうか。 考えてみたが、途中で馬鹿らしくなった莉津は1つ息を吐いた。 そんなため息の上に被せるように担任が叫んだ。 「お前はもっとガリ勉の気持ちを考えろ!」 その言葉は莉津の心の奥を刺激した。 ガリ勉の気持ちなぞ当の昔に理解している。筋金入りの ガリ勉であることは自負している。 べー、と莉津は目の前を闊歩する担任に舌を出す。 大人なんて結局こんなもんだ。うわべしか見てないのだ。 ここ、皇令学院高等科2−F5番江波莉津は、いわゆる根性がひん曲がったガリ勉仮面生徒なのである。 |