砂漠の王 13 キィという扉が開くとき独特の軋んだ音に一成は手元の書類に落としていた視線をあげた。 四方を書棚で埋め尽くされた生徒会長室は閉塞感さえ覚えるが、一番固いイメージを抱かせるのは部屋の主、生徒会長自身だろう。 部屋の隅にひっそりと置かれた観葉植物は急に息をつめた主人の叱責から逃れるようにうなだれるようにして息をひそめた。 「…何の用だ?」 突然の招かれざる客、佐元佐元は扉に凭れるようにして手元の携帯に視線を落としていたが、一成の声に未練もなく手の内のそれをパタンと閉じた。 「ノックは常識だろ!」 怒鳴り散らす一成に肩を竦めただけの佐元は後ろ足で扉を蹴って閉める。パタンと閉じる音を背に、前で眉を顰める一成もお構いなしだ。視線をあげた佐元は、少し逡巡した素振りを見せると己の唇を手でなぞった。 「今からなんでかいちょーがモテないのか解明しまーす」 にやりと笑みを浮かべた佐元に、一成は眉間の皺を一層深めた。 「いきなり何なんだ!」 「そのいちー。ブロッコリーが苦手ー」 「……それは関係ないだろ!」 思わぬ言葉に顔を真っ赤にして叫ぶ一成だったが、佐元はニヤニヤ笑うだけで相手にしない。その上、ピン、と立てた人差し指に、中指が加わる。 「そのにー。怒りっぽい」 「お前の前だけだ!」 ボキっと嫌な音がした手の内を見ると、一成が握っていたシャーペンが真っ二つに折れていた。もう用を成さないシャーペンを面白そうに見ながら、佐元はさん、と薬指を立てた。 「うちの高校の内情を斡旋してるからー」 「!?」 飄々と食えない今までの顔から一転し、狡猾な蛇のごとく目を細めてニタリと哂った佐元の顔に一成はその身を緊張に硬直させた。 「あれーバレてないと思った?」 「……何のことだ」 「しらばっくれても無駄だよーん。もうミラクル佐元部隊が裏を取りに行っちゃったからね」 「……」 退路断っちゃってごめーんね。 未だ挙げたままだった三本の指をふざけた様に動かした佐元。目の前で言葉を失った一成をまるで弱者を嘲るかのように、くすりと哂った。そして、言葉を続ける。 「別に今さらキミの言質を取るつもりもないよ。 ただ――理由を知りたいんだよね」 しばしの沈黙。佐元が放ったその言葉に、一成の顔はまるで精巧につくられた人形かのごとく、すぅと無表情へと色を失った。外から時折聞こえる女子の黄色い声以外は無音で支配された部屋は、秋口というのに2人のせいで極寒の冬のようである。 「……お前には到底理解できないことだ」 暫くして口を開いた一成の氷柱のような一言に、佐元はおどけたように目を丸くしただけだった。まるではじめから同じ土俵には立っていないかのように。そんな佐元に、当初我を失っていた一成は僅かな沈黙の後、深い諦観の息を吐いた。息には内に込められた熱が籠っているかのように感じられた。 「――お前のように天才だったらな」 「はぁ?」 突然の、脈絡のない一成の言葉に佐元はきょとんとしたように聞き返す。 いきなりどうした。 「嫉妬もしないし、努力もいらないだろ」 「あー……」 「周囲からは常に賞賛され、期待される」 キャーという女子の声が一層大きくなる。 一成の言葉にポリポリと頭をかいた佐元は何か言いたげに口を開いた。しかし、それを遮ったのは突拍子もない豚の鳴き声だった。 「豚?」 「あ、ごめーん。オレの携帯」 不可解な顔をする一成に、手にしていた携帯を片手で開いた佐元は口を尖らせてきょとんとした顔で画面を見ていたが、やがて至極面白いものを見つけたかのようにクツクツと哂い始めた。 ただでさえ深い眉間の皺をより一層深めた一成を尻目に、佐元は「うん、ドラマ的展開」と言いながら頭を掻いた。 そして、自分を不可解なものを見るかのように見つめる一成を一瞥して一言。 「んー……吊り橋効果ってヤツ?」 「は?」 佐元遼は常に全くもって意味不明な存在だ。 「誰だ!」 どすのきいただみ声に思わず肩を揺らす。 小さく悲鳴を上げかけた莉津の口を塞いだのは、大きさの割りには繊細な指を持つ智里の手だった。 思わぬことにもごもごした莉津だったが、今さらながらに智里との近すぎる距離を意識しだしてまごついた。 扉が開けられる電子音で咄嗟に莉津の手を取った智里が隠れたのは2列に5つほど連なっていた机の内の1つ。 普段なら足を置くほどのスペースしか確保されていない其処へと高校生が2人も潜り込めたのはラッキーだった。 「確かに音がしたんだが……」 響く足音に青ざめた莉津だったが、その後ろで智里は呑気にも鈍く光る黒い携帯を片手に操作している。 文句を言おうにも言葉を発することができない。 そうこうする間にもどんどん近付く足音。 ここにきて漸く携帯を仕舞った智里が今度は黒いリモコンらしきものを取りだした。 不本意ながら微かに鼻腔をくすぐる智里の匂いに気を取られながらも、莉津はその手がボタンを押すのを見た。 「うわっ!」 動揺したかのようなだみ声。 つづいてブーンという機械が回る音がしたかと思いきや、ガンッという音と共に何かが壊れた音が聞こえた。 「どどどどういうことだ!」 慌てふためく男の声は虚しくも部屋に響いて消えた。 驚きの展開に目を丸くして智里を見上げた莉津は、仄かにその口の端が弧を描いているのが見えた。 そんな2人を尻目に、ピンポンパンポン、という軽快な音が部屋に響く。 「全教員にお知らせします。至急、理事長室へとお集まりください。繰り返します―……」 機械を通してからか、いかにも無機的な女性の声が部屋に響き渡ると、男は大声で「理事長!?」とだみ声の上に大声で叫ぶなり、椅子をも蹴散らす勢いで部屋から出て行った。 「……行ったな」 しばしの沈黙の後、ぽつりと呟いた智里の言葉に頷きかけた莉津。 しかし、自分が置かれている現状を思い出すやいやな勢いよく智里から離れた。 今まであんなに密接していたと考えると到底信じられない。 動揺する莉津を尻目に、智里は飄々とした態度を崩さない。 最初は慌てふためいていた莉津だったが、そんな智里を見て冷静さを取り戻したのか、顔を顰めた。 「ムカつく」 「理解可能な日本語で話せ」 「というかその手元のリモコンなんなのよー!?」 「ただの扇風機のリモコンだ」 ご乱心中の莉津を一瞥した智里はぽいっと手の内にあった黒いリモコンを机の上に投げだす。もう用済みだ。その様子に、莉津はふるふると身体を震わせた。 「も、もしかしてアンタ知的好奇心を満たすって……」 「不測の事態に備えるのは基本中の基本だろ?」 それは疑問形ではあるが、ほぼ肯定の意を含んでいた。 智里の馬鹿にしたような笑みに莉津はブチっと自身の頭の血管が切れる音を聞いた。 「もっと他人を信頼して説明しろ馬鹿やろー!!」 部屋から出ようと扉に手を掛けていた智里だったが、莉津の怒鳴り声にその手を止めて後ろを振り返った。 顔を上気させる莉津にその目を眇めて何か言いかけたが――途中で思いなおしたのか、肩を竦めただけだった。 莉津に構わずにそのまま退出しようとしたが、ふと思い出したようにもう一度振り向いた。 「――そういえば、恐らくさっきの放送も佐元の仕業だぞ」 「―――!!」 あのタイミング良すぎる先ほどの無機質な女性の声は佐元が流したとでもいうのか。 一瞬脳裏をよぎった佐元の姿に、確かにあいつならやりかねないと莉津は思った。 ああ、どうりであの危機的状況の中で携帯をいじるわけだ。 あの時、恐らく智里は佐元と連絡を取っていたのだろう。 2人の用意周到さに、そしていつの間にメアドを交換したんだ――という 思いが、もう一度莉津の血管を切れさせた。 「もはや貴様ら結婚でもしてろー!!」 「それは御免被る」 もはやここが他校であることも忘れ、信頼関係を築くことは鼻から念頭にない智里に莉津は声を荒げて怒る。 その怒りは延々と続きそうだったが、智里が携帯を耳にあてたことによって一方的に断ち切られた。 「まったく、だから最近の若者は……」 よもや自分がその最近の若者に該当することも忘れてブチブチ文句を言っていた莉津だったが、智里が訝しげにもらした言葉に眉をひそめた。 「は?日比谷一成が屋上から飛び降りそう?」 「来るな!」 「いやー、あのさ、だから何でそうなんのよ……」 「お前に俺の気持ちが分かってたまるか!」 一旦は観念したと思った一成だったが、案外今回の事件は彼の根底を揺るがす大事だったらしい。 佐元は「まいったなー」と全然参ってなさそうに頭を掻いた。 場所は屋上。皮肉にも、以前、莉津が佐元にミカンを投げつけたところである。 一成の部屋に乱入した佐元が一件落着、と呑気に部室へ戻ったところ、一台のモニターに映る人影を見つけて「あちゃー」と思わず顔を覆った。 なんと、その人影は屋上のフェンスを登ろうとしていた一成の後ろ姿だったからである。 とりあえず他校にいる智里に連絡し、佐元自身は普段はあまり使わない脚力を100%フル稼働させて一成の元へと急いだのである。 「だからさー、さっきから言ってるじゃん」 「うるさい!持たざる者の気持ちがお前に分かってたまるか!」 明らかに激昂している様子の一成に、佐元はお手上げとでもいうように両手を軽く挙げた。 「なんか誤解してるようだけどー」 「ふん、なにが誤解だ!俺がいくら欲しても手に入れなかったものをお前は……」 こいつ本当は飛び降りる気なんてさらさらないんじゃないの? 先ほどからこれのループ、まさしくこう着状態。はぁ、と面倒くさそうにため息を吐いた佐元は、手元の携帯に目線を落とした。 もうそろそろ着いていい頃である。 「大体な!お前――」 バァン!と勢い良く屋上の鉄製の扉が開く。入ってきたのは、焦った顔の莉津と、涼しい顔している智里である。 一成は一瞬呆気に取られたものの、莉津の後ろにいる智里を見つけ、その眼光を更に鋭くさせる。 「なんだ、天才様2人で俺を嘲る気か?」 もうどうにかしてよーコイツ。 無言のまま、意味をたっぷりと含ませた視線を莉津に送る佐元。 莉津は一瞬隣りに佇む佐元と目を合わせたが、そのまま視線を目の前で喚く一成へ向けた。 「……生徒会長さん」 「努力もせずに――あ?」 完全に目が据わっている状態の一成。しかし、莉津はその目を向けられても一切たじろがなかった。 「私もあなたと同じ立場の人間です」 「は?……悪いが一緒にしないでもらいたい」 一瞬の間が空き、つづく冷笑。 「いえ、残念ながら同じです――一生消えることがないであろうコンプレックスを抱える者同士」 どうやら莉津の言葉は一成の触れられたくないところを突いたらしい。さっと顔色が変わった。 「はっ!笑止千万!呑気にのうのうと暮らしてたお前に、血反吐が吐くまで勉強してた俺の気持ちが分かるか!」 「確かに分からないかもしれない」 はっ!と一成が鼻で哂う。所詮、馬鹿娘の戯言だ。 「けど、私にはあなたが分からないことが分かる。あなたは目の前の壁から目を逸らしてるだけじゃないんですか?」 「……何が言いたい」 莉津は淡々と畳みかける。 「現実を受け入れられないんじゃないですか?」 「うるさい!」 「だから、あなたは未だに自分自身に苛まれているんでしょう?」 「お前が知ったような口を叩くな!」 「現実を認めることは、簡単そうに見えてすごく難しいです」 「何が分かるというんだ!」 「私自身、ずっと逃げ回っていました」 もはや一成は、静かだが何処か静謐な雰囲気を漂わせる莉津に気押され始めていた。 「逃げることをやめた今でも、まだ自分自身との闘いの途中です。でも、そんな不甲斐ない自分でも支えてくれる人がいる。そうじゃないですか?」 凪やクラスメイトの姿が脳裏をよぎる。拒絶されるのが怖くて始めから逃げていた。ぶりっ子という自分を守る殻に閉じこもって。 「コンプレックスは、負の側面だけを持っているんじゃないんですよ、日比谷さん」 「……」 「あなたならそれを昇華できると思うんです――一生徒の帰り道を心配してくれる生徒会長だから」 少なくとも私はあなたが立ち向かえる強さを持った人だと思います。 一成に言いながらも、莉津は心のどこかでストンと何かが音を立てて落ちるのを聞いた。 ああ、そうか。ずっと逃げ続けてきたのだ、自分は。現実を受け入れられなかったのだ。 莉津の言葉に一成は押し黙る。屋上に落ちる静寂。それは一瞬のようで、まるで永久の時のようにも感じた。どこか遠くで飛行機が通り過ぎる音が聞こえる。 「そうだな……」 ぽつりと呟く。頭上に広がる空を見上げた一成は、一つ大きく息を吐いた。 いつの間にか、他人から押し付けられた価値観を自分のものと錯覚していたようだ。 知らずに漏れた深い深いため息は、まるで一滴の墨を水に落としたかのように静かに彼の身体に沁み渡った。 |